「少数派」定義の崩壊危機
二〇一五年一月「新型嘔吐」
二〇一六年一月「CA104P型頭痛」
東京都渋谷区を中心に猛威をふるった二つの感染症から全ての患者を救った無免許医療法人デザート。
その知名度は国内のみならず、世界に知れ渡りつつあるが、未だ素性の知れない不気味な存在であることには変わりない。
開発の依頼から新薬のリリースまでがあまりに早いことから、これらの感染ウイルスをバラまいているのは彼ら自身なのではないかと某ジャーナリストは邪推したが、デザートに救われたと信じてやまない患者たちからの猛烈なバッシングにより、それ以降彼の姿をテレビで見ることはなくなった。
そして今、そのデザートからとある声明文が政府に届いた。
そこに書かれた内容は報道規制により露わになっていないが、何者かのリークにより漏れた情報が現在恐ろしい速度で広まっている。
「デザートが素性を隠したまま、東京都第七区からの出馬を表明している」というその噂。
世間の混乱を鎮めるため、政府も国をあげて策を練っているとのことだが、焼け石に水とはまさにこのこと。民衆の興味はもはやそこにしか存在しない。
そんな世間を更にくすぐるかのように昨夜、渋谷区宇田川町にあるすべての電話ボックスに一枚のビラが貼り付けられた。
そこには「多数派の凡人的生活」「少数派の変態的生活」と書かれており、目にした者がどちらを望むかに丸をつける様指示書きがされている。
マニフェストを飛び越えた、当選ありきなこのアンケートに民衆は飛びつき、今朝その中間開票が行われた。
集計結果は九対一で「変態派」が圧勝。少数派を望む人間が多数派を飲み込んでしまうという異例の事態に日本国は今、大いに震えている。
ーーーねこねこコラムーーー
ある日、目が覚めると吾輩は冷たいドラム缶の上にいた。
アサともヨルともつかぬ不気味な明度、妙に湿っぽい密室。
あたりを見回すと武器を抱えたにんげんたちが吾輩を取り囲んでいた。
顔を掻くふりで恐怖に震えるヒゲを整えつつ平静を装うも愚か、それぞれの武器を一斉に振りかぶったにんげんたちは雨道を走る自動車よりも大きな音を出し、「眠って恐怖を忘れる」という吾輩の名案を一瞬にして玉砕したのである。
通り雨のよう、「過ぎてしまえばそれでおしまい」ならまだいい。
しかし、その大きな音は何度も何度も繰り返し鳴り続ける。
鼓膜がキュンと縮んでは、時空が歪んでいるかのように思えたものだ。
「にんげんは我々の十倍も耳が悪い」と、ご先祖様がよく言っていたが、どうやらそれは本当らしい。
更に暗闇では目も見えなくなるとは、実に愚かな生き物である。
でも、いったいどういうことだろう。
そんな愚かなにんげんが掻き鳴らすその大きな音はとてつもなくうるさいが、目を閉じるとうっかりウタタネしてしまうほど心地が良い。
それまで「眠って忘れる作戦」を試みていたのが嘘かのように睡魔と戦う吾輩がそこにはいた。
それに、よく見てみると音にあわせて頭を振るにんげんの仕草は、吾輩が雨粒に降られたときのソレにとても似ている。
木の棒を持ってこれらの轟音を指揮するにんげん(見るからに先輩からモテそうなタイプ)が使っている武器と、吾輩の座っているドラム缶も形がそっくりだ。
ただ、あっちの缶にはなんだか意味ありげな穴が空いているな。
理由は分からないが、ちょっとだけ羨ましい。きっとあそこにはなにかあるはずだ。怖いけど、近くで見てみよう
…………なにもなかった。だましたな。
とはいえ、見れば見るほどに共通点が多い我々だ。
目・鼻・口・耳の数まで同じ。もしかして、吾輩とにんげんはそう遠くない生物なのか?もしかすると、分かり合えるのではなかろうか。
もしや、このドラム缶はにんげんたちが吾輩に用意してくれた武器なのでは…
期待に胸を膨らませ、足元の蓋をペンペン踏んでみるも大きな音など出るわけもなく、自慢の肉球が冷えるだけ。だましたな。にどまでも。
地を揺らす爆音にもようやく慣れた頃、ひとりだけ武器を持たず、大きな声で音とぶつかっているにんげんがいることに気付いた。Nyahoo!で調べたところ、あのにんげんの名前は「ちあき」というらしい。
吾輩の知る「にんげん」からは聞いたことのないような声で鳴く彼は見るからに凶暴そうであったが、ときどき、こんなふうにして遊んでくれるからちょっとだけ、好き。
調べるに、にんげんはどうやらにんげんの生む「芸術」というものが好きらしく、やれ「あなたには才能がある」だの、やれ「あなたには見る目がある」だのとのたまい、互いの感性を撫で合う習性があるのだという。
しかし、例えばそれが「もっと撫でてほしい」という想いから生まれた産物であれば、その芸術にはほんの少しの嘘がくっつく。
例えばそれが「媚びないロケンロール」を名乗りだしたなら、そう自称することこそが「媚びない芸術に惹かれる客」へ向けた「媚び」そのものなのである。
にんげんの言う芸術なんてものは本来独りよがりであるべきだ。
しかし、芸術家と呼ばれる者も所詮は寂しがりなにんげんであるが故、理解されたくて、愛されたくて、だけど他とは違う特別な存在でありたくて…といった欲と願いに負けてしまう。
そうして、いつしか理性的で整った「芸術もどき」を量産するようになるのだ。
あの「ちあき」というにんげんは、猟奇的な風貌から外れた言葉を叫んでいた。
「壊されないように 傷つけないように 歌う未来じゃもう誰も救えやしない」と、確かそんなことを。
吾輩がもしにんげん語を話せたなら、彼にこう尋ねただろう。
「君は誰かを救うために歌っているの?」と。
その先に待つ回答が予測不能で怖い気もするが、もしこれを見ている君が吾輩の言葉を理解できるにんげんであったなら、いつかでいい。ちあきに聞いてみてもらえないだろうか。
どんな怒りの裁きを受けたところで何の責任も取らないがね。
思うに、うるさいのは音ではなく、それに刺激されて高鳴った吾輩の鼓動なのかもしれない。でも、そんなこと認めたくはない。
所詮愚かなにんげんの作ったものだ。
奴らより遥かに高等な吾輩がまさか…
ああでも心地良い…
もう何もいらないとさえ思えてくる…
そして眠たい…そろそろダメかも…
あああああ………………
ある日、吾輩はドラム缶の上で目を覚ました。
陽だまりの公園。どうやら夢を見ていたようだ。
穏やかな秋風が頬をくすぐり、あちらこちらの家から吾輩の大好物である秋刀魚の焼けた匂いがする。
いつもの平凡な日常に戻ったのはなによりだが、なんだかちょっぴり物足りない。
まったく馬鹿げた話ではあるが、もし、あの音に好きなだけ逢える魔法の道具があったとしたら、吾輩は千の秋を魚なしに生きる覚悟を決めるだろう。
万が一、にんげん界にそんな代物が存在するのであれば、明日にでもにんげんに退化したいものだ。
そんな罰当たりなことをご先祖様に隠れて願うようになってしまった。
ちあきがことあるごとに大きな声で言っていた『ヘンタイ』とは、もしかすると今の吾輩のような愚か者を指す言葉なのかもしれない。
うとうとと、次の睡魔が吾輩を迎えにくる頃、またあの時間に逢えたらいいな。
君たちにんげん諸君にも聴かせて差し上げたいくらいの刺激的な音と嘘のない言葉に。
吾輩にとっても君たちにとっても、彼らの芸術は極上のマタタビとなることだろう。
吾輩は猫である。人間になりたい。
ご先祖様、ごめんなさい。
ーーーわたしの身近にひそむオ・カ・ル・ト(投書欄)ーーー
私が勤めている会社は正社員・契約社員・派遣社員などの雇用形態を問わず、全従業員の勤務実績をタイムカードで管理しています。
しかし、このタイムカード。どうもおかしいのです。といいますのも、繁忙期にいくら残業をしても打刻すると必ずそこには定時の印字がされるのです。
それどころか、休日出勤をしたときにいたってはジジッと印字の音がするだけで、タイムカードには何の記録も残されません。
それでも、私以外の従業員は誰一人としてソレについて触れようとせず、何の疑問も感じていない様子で昨日も今日もタイムレコーダーにカードを通しています。
私は元来お喋りなのですが、なんとなく怖くて仲の良い同僚にすらこの話が出来ずにいます。
なんて言いながら、こうして肋骨新聞様へ寄書している私はやはりどこかおかしいのでしょうか?相談員さんのご意見をお聞かせください。(28歳 販売業 のうみそちゃん)
「それは辛い思いをされていますね。心中お察しします。でも黙って働けこのブラック企業の社畜めが。(相談員)」
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