わたくしごと

記憶嘔吐

私は、懐かしむ行為が好きだ。
ノスタルジックはときに痛むけど、それも悪くないと思っている。
でも、それはあくまでも天使でも「モノ」に限った話であって、対「人」に関しては当てはまらない。
何故なら、私は「人」を懐かしく思えないから。

だって、彼らは動くんだもの。

伸びるんだもの。

忘れるんだもの。

嘘をつくんだもの。

余程の事情があって会えなくなった大切な人でもない限り、「人間を懐かしむ」という行為は私にとってとても難しい。
むしろ、人特有の「面影」ってやつには恐怖すら覚えてしまうくらいだわ。
普遍的なものを懐かしむのは楽しいけれど、そうでなければ怖い。
あの頃の姿のまま、目の前に現れてくれるなら、私にも人を懐かしむことが出来ただろうに。

成長したり、形が変わっていくものとの久々の対面は”照れ”より”恐れ”が先行する。
成人式や同窓会に私が参加しなかった理由もほとんどがそれで、想像するだけでもその空間はお化け屋敷みたいなものだ。

首が伸びました。
目が三つになりました。
口が裂けました。
その程度の変化なら驚きゃしないよ。

昔いくら仲が良かったからといって、久々の再会で「懐かしいなぁ!YO!」の言葉は出ない。
面影ばかりを残し、けれど記憶とは離れた形になってしまった彼らにおぼえる違和感はなかなかにショッキングなものだ。
そして、きっとその感覚はその日からずっと私の中に残り続ける。

なんだあいつは。
もっとこうだったじゃないか。
声低過ぎダロ。敬語使いそうになっちゃったぞ。
そんな寝言を繰り返してしまう日々が続くと思うんだ。

私の頭の中には人様に共感してもらえないことが多く、人様に共感することもまた極めて少ない。
やれ「個性的だ」「感受性が豊かだ」と褒めている様で実際そうでもなさそうな言葉をくれる人たちもこれまで多くいたが、一昔前の私にとってそれは結構なストレスで、「きっと他の人とは合わないであろう考え」を口に出さない様にしていた期間がとても長くあった。
その内のひとつが今お話していることでもある。
私は、記憶に臆病なまでに敏感なのだ。

小学生の頃の写真や卒業アルバムを眺めれば、人は「懐かしい」の言葉が唇から自然とこぼれ、過去の記憶に頬を緩めることでしょう。
これに関して言えば、私も同じです。
だってそこには、私の知っている人が知っている姿のまま残されているのですから。あぁなんと愛おしいことか。

この子は今頃どんな仕事をしているのか、結婚はしたか、子供に変な名前をつけていないか。
その後の未来の話を人づてに聞くのはとても楽しいけど、本人と会って話したいとまでは思わない。姿が怖いから。
離れていた期間の記憶を埋めるのは大変な行為で、でもそうしなければ気が済まない私の胃辺りに住む「知りたがり菌」が余計に再会を拒むのよ。
会えない時間が育てるのは愛なんかではなく、不安と恐怖だからね。

昔の誰かに興味はなし。
でも、子供の頃に大好きだった玩具やキャラクター、ノートへの落書き、作文、日記なんかには片っ端から再会したい。
今よりも余程頭を使って過ごしていたあの頃のそれらに教えられることはきっと百や千どころではないと思うから。
とはいえ、心と気持ちの面でいえば、幼少期とほとんど変わらない形で生きてきてしまった。
でも、こういう生き方はこういう生き方で「忘れずにいること」を人より深く楽しめるので、まぁよしとしましょう。心底不気味だけどね。

毎週の様に実家に遊びに来ていた3人の姪っ子たち。
私がこの家を離れる前は、まだ小学生だった。
0歳からずっとその成長を見てきたし、しょっちゅう遊びにも連れて行ったものだ。
3人兄弟の末っ子である私にとって、彼女たちは妹みたいなもので、可愛くて仕方なかった。
でもね、聞いておくれよ。
こちらへ帰ってきたら、彼女たちは社会人と高校生になっていたんだ。どうだい。怖いだろぅ~~~。

実家へ帰ってきて初めての週末、「○○(姪っ子)が明日遊びに来るよ。」と言った母の声に私は震えた。あの頃は会いたくて仕方なかったのに。
何を隠そう、小さい頃の3人に平仮名を覚えさせたのは他でもないこの私だ!なのに!!こわい!!!
そんなこちらの気も知らず、背が30cm近くも伸びた彼女らは私に「会いたい」と言っているという。
泣ぐ子はいねがーと、なまはげに追いかけられる子供の気持ちが今ならよく分かる。
結果、私はその日に予定を立てて、朝方から家を飛び出したんだとさ(最低)。

まぁなんだかんだと言ってはいるけど、変わらずにあるものなんてそうそうない。
子供の頃に遊んだ運動場や公園の遊具、近所の駄菓子屋、あの頃は何を売っているのかすら分かっていなかった金物屋や、傘修理の台車をひくおじさんの声。
色んな歌にも切なげに書かれていることだけど、大きなマンションやショッピングモールに飲み込まれていく記憶の数々というのは、「本当にあった怖い話」そのものです。

凶器にもなる記憶とは違い、思い出というのはとても素敵なものだから、できることならそのままの姿で残っていてほしいと思う。
言ってみたら、私にとっての「記憶」は知らぬ間にRECボタンが押されたビデオテープみたいなもので、「思い出」というのは自発的にボタンを押して残そうとしたキャプチャー画面みたいなものです。
厄介なのは、その再生ボタンも無意識に押されてしまうものなので、なんとなくひとりでいるときにぼやっと思い出しては、そこそこの感傷にやられちゃう点なんですけどね。

毎日毎日馬鹿みたいに長文のブログを書いていたあの頃の私はもういませんが、こんな風に聞いてほしいときにだけ言葉を置いていく身勝手さも許されちゃうのが令和でしょう。
変わらずにお付き合いくださる方がいるのなら、こんなにも需要と供給がピシャリな関係も珍しい。あなたとは気も間も合いそうです。
穏やかな気持ちでここまで読み進めてくださったオーバーサーティーの眼差しに感謝。
明日はきっと良い日になることでしょう。
それではおいとままたの日に。