わたくしごと

おそるる短所

どこまでいっても梅雨梅雨梅雨。そろそろ雨にも飽きてきた。
連日連夜、cuneの『リフレイン』を具現化した様な雨!雨!雨!これじゃ走れない!肥え~(“萌え”の太るver.)

とは言ったものの、雨が嫌なのはあくまでも私の勝手であって、世の中には雨を好む方も当然いらっしゃいます。
実際、高校生の頃にテニス部員が「やった雨だ!部活休み~イエーイ♪」とはしゃいでいる姿を何度も見てきましたし、スーパーでアルバイトをしていたときには「今日は雨だから客が少ないなぁ~早退しよっと!ラッキー♪」などと浮かれる社員もいたし、「雨音を聞くのが…SU…KI…」なんてうっとりしている乙女を見たことがある気もするし、なにより蛙が喜びますしね。それが一番良いことかな。どっちかと言えば苦手だけど。かえる。

議論の場において、自分の立場が不利になると「人それぞれ」という言葉で逃げようとする人っていますよね。
そういう人はちょっと好きになれませんが、世の「喜怒哀楽」はそれなりの公約数こそあれど、大体は「人それぞれ」で片付いちゃう様に出来ています。
しかし、その「人それぞれ」は何も第三者を指すときだけに用いられる言葉じゃなかったりするのでちょい厄介。
あなた一人の人間に対して、2つの「人それぞれ」が共存することもありますから。
それは、「外から見た自分」と「自身から見た自分」双方が抱えるヒトソレゾレ!

「あなたは、私のことなんて何も分かっていない」
「いいえ、自分のことは自分が一番分からないものよ」

これらはきっと、どちらも正解で、どちらも不正解なのでしょう。
その証拠に、人は生きていくなかで他者からビックリの百乗にも及ぶ「驚きの評価」を受けることが多々あります。
私にとってのそれは、これです。

「渡辺さんって、本当に強いですよね」

今まで何千回と言われてきたセリフですが、その都度「なにをどう見てそんなこと言ってくれちゃってんの!?」と分かりやすく慌てふためいてまいりました。
何故なら、この34年間「私ほど弱い奴はいない」と、悲劇や困難に直面するたび嘆き続けてきたからです。
「親しい人には分かってもらえるだろうな」と思いながらも、時々身内からもその様なことを言われることがあるので「あんた何も分かっちゃいない!」と、ヒステリックなOL級の脳内激昂を爆発させることもしばしばです。

嘘偽りなく、私は本当に弱い人間です。
ただ、その「弱さ」というものにはいくつか種類があり、私のことを「強い」と評する方々の多くは、私の「ある一面」に触れてそう言ってくれているのだと思います。
その一面とは、「他者からの攻撃に対する耐性」です。
といっても、私は機嫌の悪い日が存在しない超穏やかで超つまんない人間なので、私生活において、他人から攻撃を受ける機会がほとんどなかったりします。
しかし、それでもときには「お前は間違っている!」と怒られることはあるのです。
言葉にせずとも態度で攻撃をしてくる人だって世の中にはおりますし、長いことSNSを使っていると「お前が嫌いだぁぁあ!」と明後日の方向から中傷を浴びることだってあります。
ただ、私はそれに対して何とも思わないのです。
その鈍感さたるや、熱くなっている or 傷付けたいと願っている相手に申し訳なさすら覚えるくらいで、人々はおそらくそういった面を見て「強い」と言ってくれるのでしょう。

「人の目(発言)を気にしない」という性格は、長所面をした短所でもあります。
「人の話を聞かない」とすれば、分かりやすいでしょうか。
以前にも「他者からの中傷」についてブログで書いたことがありますが、私はネット越しの見ず知らずの人間に攻撃を試みる人種に対し、一貫して「嫌いなら一生嫌いでいて!中途半端じゃなく、末代まで続く大憎悪で!」と願いを唱えます。
そういった考えに至るまでの詳細に関しては、その日のブログをご参照くださいまし(最後にリンク貼りますね)。

「ずっと嫌っていてほしい」という思考。これは確固たるものですが、同時にそれとはまた違った類の感情を抱いていることも、この際なのでお話します。
その感情ってのは、こういったものです。

「それで攻撃出来てるつもり?ぬるいな」

これです。
「割かしあなたのブログ読んでる方よ」という奇特な御方にはきっと伝わっているかと存じますが、私は「自身の短所」を誰よりも多く深く語れる自信のある人間です。
転職時の面接で「あなたの短所は?」なんて聞かれようものなら、「ビッグチャンス到来!」とばかりに腕をまくり、嬉々として何十何百もの短所を披露して差し上げることでしょう。
その自虐(という名の本心)っぷりに耐えかねるのはむしろ聞き役の側で、これまで何度も「よくそんなに自分のことを悪く言えるね」と笑われたものです。
そうやって生きてきた私ですから、生まれてこの方自分よりも自分を傷付ける言葉を持っている人に出逢ったことがありません。
よって、「これはダメージ大きいわ…」とうずくまる機会など皆無なのです。
それが幸なのか、はたまた不幸なのか。これもまた「人それぞれ」なのでしょう。

なにも私だけではない。
私は、私にも相手にも期待をしない。
そして、以前にも書いた様(最後にリンク貼るってば)にそれが顔も知らない他人ともあらば、尚更そこに何の感情も抱けないのです。
あらゆる口論の場で無意識に出てくる「だって知らないんだもん」というセリフは、後世まで続く口癖となることでしょう。
誰かの味方になることはあっても、誰かの敵になる意識などこれっぽっちもないものですから、実にフワついた存在です。
その点においては実生活でもまるで同じ。裏表なんてない薄っぺらな人間ですからね。

さてさて、「期待をしない」というのは、これまた相手に対して大変に失礼なことです。
ちょっと怒られそうな話ではありますが、一個人が抱える本心としてここに綴っておきましょう。

私は、これまで趣味・仕事の垣根を抜きにすると、かれこれ13年程「音楽にまつわる文章」を書いてきました。
そんな中で、「個人の感想文」に寛容なアーティストたちが私の存在を取り上げてくださった結果、こうして多くの方に文字を届けられる今があります。
ただ、初めてレビューやレポの記事をドワンッと取り上げていただいた十数年前から今に至るまで、ちっとも変わることのない「核」なる考えを持ち続けており、思えばそれについて書いたことがなかったなと。
これまた卑屈の極みの様な思考なのですが、もし良かったら聞いてください。
その「変わらない考え」とは、「こんな状況、いつまでも続くわけがない」というものです。

文章に関してだけではなく、その思考は自身の人生における「すべての喜び」に水を差します。
良く言えば「謙虚な奴」、悪く言えば「すかした奴」ってとこです。
自分には才能なんてないと思い続けてきたからこそ、これまでガムシャラにやってこられた。ただそれだけの日々でした。
その手の才覚があるのであれば、もっと効率的に短期間で圧倒的な成果を出してみせたことでしょう。
しかし、そうはなれなかったからこそ、「自分が自分が」とは一ミリも思えず、「なんで存在を知ってもらえているの?」と問われれば、「アーティストが見付けてくれたから」と一切の躊躇なく答えられるのです。
そして、その糸はとてつもなく脆いものだという意識を常に持っています。

例えば、Aというバンドがいて、私がそのバンドのメンバーであるBさんに「お前の文章最高!」と公の場で賞賛されたとします。
すると、その最強たる口コミによって、Aのファンをはじめとする多くの方に記事を読んでもらえる様になりますね。そこで生まれる意見はきっと様々。
Bさんを愛するが故、好意的な気持ちを抱えながら文章を読んでくださる方の多くは「確かに素晴らしい!」と私を褒めてくださることでしょう。
「好きな人の好きなもの」を好きになる確率の高さは、何も好みの問題だけではなく、「その人がこう言ったから」というただそれだけのことで上がっていくものです。
ただ、それと同じくして「Bさんはああ言ってたけど、私はこの人の書く文章苦手だな」と思われる方も当然おり、なかには「取り上げられただけで気に入らない」という反目的な視点を持つことで、記事に目もくれず暴言にも程近い言葉をぶつけてくる方もいらっしゃいます。
でも、そうなるのは必然的なことで、それに腹を立てるなんてのはあまりにも幼稚です。
これは、私がこの十数年で実際に経験してきたことなので、同じような経験のある方には「お前もそうだったのか」と画面越しに呟かれている予感がします。仲良くしましょう。

アーティストの好意は、全てではないにしろ、多くのファンに伝染するものです。
だからこそ、あらゆる喜怒哀楽が複雑な形をした「表裏一体」を生みます。
私は「喜び」よりも、むしろその「畏れ(おそれ)」の方に目を向けるのです。
「一度目に書いたものが評価された」→「よっしゃあ次もやったるぞ!」ではなく、「わざわざ取り上げてくださるなんて、この方は優しいな。でも、次もそうとは限らないな」と。

もし、二度目に書いたものがBさんの意に反するもので、「これは気に入らない!」と彼が言ったとしたら、その言葉を受けたファンの方はどう思われるでしょうか。
もちろん、「文章は文章として評価する」という方もいらっしゃるでしょうが、同じように苦言を呈する方がワッと押し寄せてくる未来しか私には想像出来ません。
ある程度軌道にのっていれば、「何を書いたか」よりも「誰が書いたか」で評価されることも増えていくでしょう。
しかし、「誰が書いたか」という勲章は、おしなべて「何を書き続けてきたか」によって結晶化されたもの。
どんなに丁寧に功績を積み上げても、ただの一瞬でそれが崩れることも当たり前にあるのです。
私が誰の何について書くときも大小なしに抱える「驚異的な畏れ」は、そこに存在します。

そうして芽吹いた卑屈の種が今、私という人間を「妖怪ヒトニキタイシナイザー」へと仕立てあげるのです。
しかし、元来人様の意見・主張にあまり「共感」を覚えない私にも心の拠り所があります。
それが大好きな音楽です。そして、そんな愛すべき音楽のなかに、こんな私にも「共感」を与えてくれる唄があるのです。
前述の諸々を一曲にまとめてくださった最低かつ最高な唄。
焦らすのは苦手なので、すぐに言っちまおう。
それこそが、LIPHLICHの『嫌いじゃないが好きではない』なのであーる(ドーン)。

全編通して冷汗が出る程の共感度合なのですが、そんな中でも特に強烈なのがこの一節です。

 

人の評価はこうも簡単に変わるって事知ったでしょ  あまりにたやすいね

 

これこそ、まさに私がずーーーーーっと抱え続けてきた悲哀!苦悩!嫌悪!蛇の歌意!シャー!

というわけで、本日は「基準・常識・評価なんてどれもこれもアテになんねぇ」というお話でした。
ここまでのお付き合いに深く感謝致します(4507字)。
読破ついで、もし宜しければ、今から一緒に聴きませんか?
血が出る程に痛快な、あの唄を。

あざちゃん
あざちゃん