わたくしごと

嫌いになるということ

今宵もどうもこんばんは。毎日更新を目論みかける私です。
明るい時間がのびて、三郷・春日部あたりの暴走族もニョキニョキ顔を出し始めた今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今日は、これまで一度も書いたことのない「人を嫌いになること」について、実体験を交えてお話してみたいと思います。

まず、大前提としてご認識いただきたいこと。
私は、人を嫌いになったことがほとんどありません。

「人見知り」という概念が生まれながらになかった私は、先輩後輩上司部下男子女子問わず人間関係のトラブルや喧嘩別れもなく、歳の離れた兄二人があまりにも恐ろしい奴らだったため、彼ら以外の人間に「怯える」という経験もありませんでした。
なんでも好き勝手に話す私の主張を笑って聞いてくれる周囲の人たちに救われながら、今日まで34年生きてきたのです。

少し話は反れるようで実は反れないので、続きを聞いてくださいまし。
私は、人が人として生きていく上で当たり前に経験することをあまり経験していないの。というお話を。

例えば、くしゃみ。
Twitterには書いたのですが、私は今花粉症もどきにかかっています。
そこで、人生においてほぼ経験したことのないくしゃみを10回程連発した際、肋骨にあっさりヒビが入ってしまいました。
人間は誰しもあらゆる経験を経て、心身に「免疫」をつけていく生き物です。
しかし、私の体は「くしゃみ」へのそれが圧倒的に足りていなかったため、「何なのこの衝撃!耐え切れない!」と、右心室周辺に住まうネズミちゃん(4才)がパニックを起こした結果、あの様な事態になってしまいました。

免疫が足りないⅡ。
私は、腹痛を経験した覚えがございません。
なもので、おそらくではございますが、この先発症するであろう「極一般的な腹痛」に襲われた際には、きっと史上最も醜い表情でのたうちまわることかと存じます。
私を嫌う方がもしこの文章を読んでくださっているのであれば、どうぞその日をお楽しみに。詳細をレポするわ。
いやはや、想像するだけで恐ろしいぜ腹痛よ。でも、これは多分幸せなことなんだろう。

免疫が足りないⅢ。
私は、薬を飲むのが嫌いです。
なもので、どうにもならないレベルに達さない限り、薬には手を出しません(言い方がちょっと物騒)。
しかし、そのおかげで薬を飲むと3分程でほとんどの症状が吹き飛ぶのです。体が慣れていないもんですからね、薬とその優れた効果に。

免疫が足りないⅣ。
私は、鼻水と縁がありません。
なもので、この歳にして恥ずかしながら「鼻をかむ方法」というのを理解していなかったりします。
ティッシュを鼻にあて、器用に処理される方々を見ては「あんたらクールねぇ」と痺れる。
って、これは免疫関係ないな。失礼。

と、この様に、慣れていないことを経験した際の私(及び私の体)は人様以上の驚きを得ることが多いのです。
そして、今回タイトルにもしている「人を嫌いになること」というのも私にとって例外ではございません。これは、体ではなく心の問題なはずなんですけどね。

冒頭でも触れた通り、私は人を嫌いになることがありません。正確に言うと、数年前までありませんでした。
もちろん苦手な人・波長が合わない人はいます。ただ、その相手もきっと私のことを同じように感じていて、お互いあまり意識をしあわない内に距離を取りあってきたせいか、ストレスを覚えるまでには至りませんでした。
ここまでの物言いで勘付かれた方もいらっしゃるかと思いますが、そんな私にも明確に「嫌いな人間」が過去一人だけ出来てしまった経験があります。先程の免疫云々の件と同様、これがとても苦しかったのです。

あらゆる組織、それは学校であったり、職場であったり、趣味での出会いによって形成されるものであったり、そういったグループのなかで私たちは「誰からも嫌われる人」に出会うことがあります。
もちろん、なかにはその人を好いている方もいたのかもしれませんが、その好意さえ埋もれて見えなくなってしまうほど多くの人間から嫌われてしまう人がいるのです。
私は、割かし手間の掛かる人や面倒がられる人を嫌にならないタイプなので、むしろ「嫌じゃない勢」の一人として彼らと共存することが多かったのですが、例外というものが誰しもに存在するということを当時身をもって知りました。

その人は、「そういう星のもとに生まれたのかな?」と疑ってしまう程、周りの人間たちから忌み嫌われていました。
接する時間を重ねれば重ねる程、誰もが口を揃えて「あんなに性格の悪い人間を初めて見た」と言い、私も「本当にそうだよなぁ」と心底同意しながら、それでも接さなければならない環境にいたので、どうにか上手く心を崩してその輪のなかで生活をしていました。

責任を果たさず、しかし自分を守るためであれば共に在る仲間さえも平気で蹴落とす。
「あることないこと」どころか「ないこと」を更に誇張し、自分を信用している極極極少数の人間にそれを言い回る。
意識的な加害者であり、そうある方が得だと判断した場合にだけやけに被害者面をする。そんな人でした。

人の長所を見つけることが得意な私ですが、その人に限って言えば何年一緒にいても唯の一つさえ「良い部分」を拾い上げることが出来なかった。
関わらないで済む関係になってからもう数年経ちますが、今思い返してもあの期間に覚えた嫌悪感と苛立ちは相当なものだったと感じています。
そして、その渦中にあった頃、ふとした瞬間に私は何度もこう思いました。

「みんな、この気持ちを抱えたまま日々生きているのか。すごいな」

そう、「人を嫌う」という行為への免疫がなかった私にとって「嫌いな人間と居ること」は今まで想像し得なかった程の苦痛が伴うものだということをそこで初めて知ったのです。
これを読んでいる方のなかにも「毎日の様に会わなければならないけど、嫌で嫌で仕方ない人」というのはいるはずで、それが私の様に過去の経験のひとつであったとしても、「よくぞあの感情を抱えたまま、上手く取り繕えてこられたぞな」と感銘を受けてしまうのであります。

「人を憎む”自分”という人間がこんなにもおぞましい感情や思考の持ち主だった」という事実に時々耐えられなくなり、後半はその存在を視界に入れない様徹底して過ごしていました。
過去に言われたこと、されたことを反芻しては「なんで一緒にいない時間にまでこんなことを考えなければならないんだ」と頭を抱えたこともあります。
その人のせいであらゆる誤解を被った人間も多すぎる程いて、私も例にもれずその中の一人だったわけですが、被害者ズである我々は互いに「関わりたくないから戦いたくない。関わらずにいられるなら(本人を信用する極極極少数の人間に)誤解されたままでも構わない」と満場一致の意見を保有していたので、それがかえって誤解の温床化に繋がっていたのも確かです。
でも、それでも関わりたくない。自分の人生に現れる時間を一分一秒でも減らしたい。そのくらい特殊な存在だったのです。

とはいえ、今振り返ってみればあの頃程の怒りは沸き起こってきません。
「時間薬」という言葉もあるくらい、時間はあらゆる問題の解決を手助けしてくれます。
ちなみに私はこの言葉を「游彩」というバンドの歌詞で知りました。V系は教養だわ。

※ちなみに私は『色暮』という曲が好き

はてさて、そんな”過去の傷”としてではなく、今現在その渦中に在るみなさんはどうあの気持ちを管理されているのでしょう。
「少し苦手」「嫌いかもしれない」ではなく、「心が淀み切るほどに嫌いな人間」を相手に。
「それも慣れだ」と言われればその通りかもしれません。
しかし、あの感情に近しいものを抱えながら、日々お仕事をされているあなたにはモノホンの尊敬を差し上げたく存じます。
私も免疫をつけるために、あらゆる年齢・あらゆる境遇にある人たちの「死ぬほど嫌った経験」をまとめた書物を探し求めて、さいたま市の桜区図書館に足を運ぶことにします。あそこ綺麗だし、wi-fiあるしね。

というわけで、皆々様本当に人生お疲れ様です。
『スノーマンは帰らない』でも聴きながら、心に安堵の火を灯しましょう。
おやすみなさい。良い夜を。