わたくしごと

絶対的な相対性~どっかいけコロナ~

33な4月とも1414お別れとなるエイプリル末日。皆様いかがお過ごしでしょうか。
私はというと、Twitterでもちょろっと触れました通り…

といった、まぁあああファンタスティックな就職活動に泣き笑いする日々でございます。
これに限らず、コロナの影響で選考が延期に次ぐ延期となっている企業様も多く、完全に動く時期を見誤ったなと。
とはいえ、不幸中の幸いというかなんというか、当初抱えていた「書類選考でバサバサ落とされるだろう」という予想とは裏腹に、面接の機会をくださる優しきジャパニーズカンパニーの多さに感動しているのもまた事実です。
希望としては、WEBデザイナー・コーダー職での応募をしているのにも関わらず、ポートフォリオをご覧になった採用担当者様から「ライターで入らない?」と職種チェンジを提案されることが重なったり、「話が上手い」という理由からコンサルタントとしての入社を強く勧められたり(腰を抜かす程の待遇で怯む)と、こんなときでないと気付くことのない自身の微々たる価値と需要に出会えて、ちょっとした幸せを感じていたりもします。
就職活動(主に面接時)における私の最たる短所「緊張感のなさ」をどうにかしなければと思いつつも、会話をしているとついつい楽しくなってしまう性格はどうにもならず。
ただ、「人間的にピタッとハマる居場所を見つけるための面接」とすれば、その挑み方もあながち間違っちゃいないのかもしれないとも思い始めてきました。

と、そんなくだらぬ話はさておいて、ここらで今日のテーマへと潜伏致します。
先日、夕食前にルマンドをサクサク嗜みながら、私はこんなことを呟きました。

こいつはあれです。いわゆる「憂い」ってやつです。
メディアに多数出演されていたり、アリーナ・ドームクラスでツアーをベシベシ決めている超売れっ子アーティストのファンの方や、ライヴには行かず「作品」を追って音楽を楽しまれている方にとっては、あまり関係がないことなのかもしれません。
しかし、生の演奏やパフォーマンスを通じて血を通わせ合っていた者にとっては、この「会わなくなること」による悪影響は避けて通れぬと、今日はそういったお話をしたいと思います。

突然ですが、よく用いられる心理学用語で「単純接触効果」というものがあります。
これは、「繰り返し接していると、好意度や印象が高まっていく効果」を指すもので、言葉自体を初めて目にされる方でも、なんとなく身に覚えのある現象なのではないでしょうか。
しかし、「嫌いな人は何度会っても嫌いでしょ」と思う私に限って言えば、「(多少なりとも好意を持って自ら)繰り返し接しているもの」という長い枕があって初めて成立する効果だったりします

オフラインのみならず、これはオンラインの場においても通用する理屈です。
現に世を賑わせている人気YouTuberも、ブログで生計を立てているブロガーも、皆口を揃えてこう言います。

「毎日更新が何よりも大事」

「単純接触効果」の効果を身をもって体感している彼らが言うのですから、それはきっと紛れもない事実なのでしょう。
思えば、異常以外の何物でもなかったアメブロ時代の膨大なアクセス数も「毎日更新していたこと」によって生まれたものでした。
現に「23時頃に毎日更新する」というなんとなくのルールによって、「君のブログを読むのが日課よ」というお言葉をいただけることも少なくなかったのです。
何者でもない私にとって、「顔も知らない人様のプライベートタイムに自分が介入している」という事態は、極めて摩訶不思議なもの。
その後はTwitterに重きを置いたものの、音楽のことや私の偏った戯言を書き続けていることには変わりがないので、優に10年以上のときが過ぎた今でも当時から私の書くものに触れてくださる方が多く、ときには初めてお会いする(遭遇してしまった)アーティストにさえ、「お前がkaniか!」といったリアクションをされることもありました。
このことから、そいつ自体(この場合は私)には何もなかったとしても、「ずっと見ている・知っているヒトとの邂逅」に、人は妙なレア感(価値)を見出してしまうことが分かります。
万物カーストでいう「一般人未満(ミカヅキモと同類)」な私ですらこうなのですから、ファンにとって「価値」そのものであるアーティストが相手となれば、その想いの破壊力たるや爆発的!
なんせ、そこには「憧れ」と「敬意」がありますし、なによりも日常的に作品に触れることで、プライベートに介入してくる時間の長さも桁違いですからね。

しかし、そんなアチチな熱意をも冷ましてしまうものがこの世には存在します。
それこそが、私の憂いだ「会えない時間」です。
「そんな薄情者はお前だけ」と言われようが知ったこっちゃなく、「例えそうであっても個の意見を言わずして何を書くことがあるんだい!」と一人相撲を取る私にとって、「無駄」ほど愉快なものはありません。
その証拠に「不要不急の外出はNoooo!!!」と言われ、しくしく家に籠っていると、私の外出がいかに不要不急で無駄なものばかりであったかを思い知らされています。
とはいえ、「じゃあ娯楽と隔離された効率的な人生が楽しいか?」と問われると、先程のそれとは比べ物にならないくらいの「Nooooooo」が唇で暴れ出し、「ここまでくると、もはや無駄ですらない!」と矛盾めいた結論に至るのです。

「今日の生命を維持するのに無くてはならないものなのかどうか」を基準にして動く自分は、活き活きと外を出歩いていた自身から見れば植物同然ですから、ただただ「現状から早く抜け出したい」という思いは大きくなるばかり。
なんだか良い感じに文章が進んでいるので、ここらで悲哀の広告をうちます。

雇い主募集中

「会えない時間にこそ、愛が育つ人」
私にとって、これほどまでに見上げた人間は存在しません。
不可抗力にすら屈さず、ひとりお部屋で想いを募らせる姿は天使そのものです。
きっとそういう人が、長きに渡る遠距離恋愛の果てに幸せな結婚をキメられるのでしょう。
しかし、なかにはそうもいかない奴がいます。
その結果を「愛の欠陥」と診断され、「その程度の好きだったってことでしょ?」と言われてしまうタイプの人ですね。最寄りビトでいうと私です。遠距離恋愛も駄目でした。
しかし、見苦しくとも、「これは欠陥ではなく、性質だ」と訴えたい。

例えば、バンドの「活動休止」。
発表を受けた瞬間には、それまでに積み上げてきた「大切」の分だけ、悲しみをドワァァアと文字や声にして放出しますが、活動を止めてから三ヶ月もしたら、その熱は形に出すほどのものではなくなってしまいます。
そして、そんな日々が続くと、「それがなくても生きている自分」にも慣れてきて、自分事なのにも関わらず、妙に俯瞰から自身をとらえるようになるのです。
「はてはて、解散したわけでもないのになんでだろう」といった具合に。

そうこうして一年も経った頃、そのバンドの復活が発表されたとしましょう。
すると、想いは再加熱!…の様に思えるのですが、それはあくまでも相対的なもので、当時の熱と同等かと言われるとそうでもなかったりします。
復活後の数回はライヴへ行くものの、徐々にではなく瞬間的に足が遠のいてしまう。そんな人も結構な数いるのではないでしょうか。
現に大成功した一日復活ライヴに続けて追加公演をいくつか企てるも、3回目あたりから一気に動員が落ち込むケースを何度も目にしてきました。
公演日のスパンが短ければ短い程、それは顕著であり、「何が観たくて最初のライヴには足を運んでいたのだろう」という疑問さえ浮かびますが、考えれば考える程に音楽の価値とは離れた方向へ導かれてしまうので、「やめやめ!」と思考に封をしたものです。

ファンがライヴに行かなくなるのには、「絶対的な理由がある人」と同等か、もしくはそれ以上に「呼吸を止めたかの様にある時期からパタッと来なくなる人」が多い印象を受けます。
それは、私がこれまでの業務を通して感じたものであり、単にそういった偶然を何十何百と連続で目にしてきただけなのかもしれませんが、「どうして行かなくなったんですか?」と尋ねても、「なんでですかね…」と天を見る方が大多数を占めていたのは確かです。

バンドの「解散」にも少し似た点があります。
忘れられない一生の思い出を抱えながら、私は愛一杯にその終焉を見届けるわけですが、どんなに好きなバンドであっても、その後数ヶ月で彼らの楽曲を聴く頻度が落ちていることに気付きます。
ときどき思い出して再生しては、「やっぱり良いなぁ」と再熱することは幾度もありましたが、それでも直に追いかけられた頃の感情とはまた別モノです。
とはいえ、一ファンとしては使命も義務もなく、そういう楽しみ方も大アリなので、「芸術ってのはつくづく優しいものだ」と一人感心などしてみたりして。

私の好きな歌手の一人であるさだまさしさん。
彼はその昔、憧れを抱いていた海外ミュージシャン(ポール・サイモン)のインタビュー記事を読み、激怒した経験があることを様々なメディアでお話されています。
そのページに記されていたポール・サイモン氏の発言は、この様なものでした。

「たかが音楽。いつでも辞められる」

ずっと背中を追い続けてきたミュージシャンが口にした「たかが音楽」の一言に怒ったさださんは、レコード会社を通してアポを取り、その真意を確かめるべくニューヨークへと向かいました。
そこで、彼はサイモン氏に「なんであんなことを言ったのですか?」と尋ねたのです。
すると、サイモン氏はこう答えました。

「音楽は常に過去に向かって進行しているんだ」

さださんがそれはどういうことかを尋ねると、彼は「音楽は生まれた瞬間に死に、手離した瞬間に他人のものになる。コンサートは、その曲を作った人間が作った瞬間の感動を観客に伝えるために行われるものだ」と論じたそうです。

過去の価値を称えることで、かえって「今の尊さ・美しさ」が映えていく。
「唯一、楽曲の生きた音を知っている者が、今目の前でそれを伝えてくれている」その姿を目の当たりに出来るのはとても幸せなことで、こんなにも贅沢な「今」に勝るものなどないと、改めてそんなことを思わせてくれる大好きなエピソードです。

そんな確固たる「今」が薄れていく様な感覚を覚える昨今、ライヴハウスが次々と閉店しています。
私が勤めていた様な偏ったジャンルの専門店は、言うまでもなく瀬戸際中の瀬戸際。
最も収益の高い主催ライヴも塞がれた今、この状況があと2ヶ月も続けば全滅してしまうことでしょう。
そこへ募る憂いももちろん膨大なものですが、私はそれ以上にコロナによって物理的に隔絶されたアーティストとファンを覆うシーン全体の熱が沈んでいくことを恐れています。
こんな状況下において、あらゆる媒体を使い(時には作り)、不安のドドド渦中にありながらも尚、ファンに何かを与えようとするアーティストの勇姿には「格好良い」以外の言葉が見付かりません。
シーン丸ごと、どうにか報われてほしいと願うのは至って自然なことです。

一日も早く、双方の熱を酌み交わすことで魅力を増していく超音楽の超発展と超進化に再会できることを切に願いながら、哀しき求職者は眠るとします。
頑張れヴィジュアル系。内定ください。おやすみなさい。