わたくしごと

長いもの逃避劇

令和2年目も折り返し地点を優に超え、どこもかしこも雨ザアザアな関東地方。
ジメジメのウツウツにやられたせいか、昨夜から部屋のエアコンがゴォォオオンと鳴くようになりました。
深夜の冷蔵庫くんと会話をしているのかもしれませんが、結構迷惑なのでやめていただきたいところ。

それはそうと、街はテレビは巷は世論はコロナコロナコロナコロナコロナ。
毎年楽しみにしている熱海の海上花火大会も時間短縮での開催になったり、閉店を間近に控えた愛するうさぎカフェにも遊びに行けそうになかったり、近所のスーパーにいつまでもカラムーチョが再入荷されなかったりと、日本が暗い顔をしている今日この頃ではございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

まぁでもね、それらの悲哀をも軽く凌駕する程に、私が今一番憂いでいるのは!so!どこへ行くにもマスクをしなければならないこと!
これがもう地獄でならぬ。

というのも、私はこの35年の人生において、マスクってものをした経験が皆無だったんですね。
それはそれでどうなのよって話ですが、「マスクせざるもの寄るべからず」なムードに日本が大変身してからというもの、「世間様には逆らえねぇ」と嫌々する様になり、もうすぐ3ヶ月程が経過しようかという今も尚、この違和感には全く慣れないのです。
少し大袈裟に言うと、窒息しそうになるのよ。風邪より余程辛いよ。

ちなみにこの「マスクしたことなかった」に並んで、人様から「嘘でしょ?」と言われる私の人生史のひとつに「腹痛になったことがない」というものがあります。
それはそれは羨ましがられてきたこの体質ですが、そもそもなったことがないから、それがどの程度の得なのかを未だに分かっていなかったりします。

私的通気性No.1マスク

ど、いうわけで?今日は、前回の話につづき、私の短所についてお話したいと思います。

前回の記事でもお伝えした通り、私の再就職に伴う面接たちは盛大なる「短所発表会」のままに幕を閉じました。
数ある短所のうち、面接官の方々には「女々しい」「闘争心がない」の2つが人気だったというお話をしたわけですが、それらにつづいて多くチョイスされていた短所がひとつありました。
それは、「忖度できない」というものです。

これが例えば10代・20代の頃であれば「媚びない男」なんつって、それなりにヒールで格好良い印象を与える可能性もなきにしもアラブ共和国だったのでしょうが、年の頃なら35な私にとって(日本語)、これは紛れもないド短所であると、最近常々感じているのです。

分かりやすい例として、私と対極にある人間を紹介しましょう。
同期入社したイケメン男性社員Hちゃんです。

彼は私より5つも年下なのですが、とにかく頭が良く、かつ陽気&ひょうきんで、隙あらば先輩の懐にソソソッと忍び込み、チャーミングな関西弁で笑いをとっては日毎愛され度を増していく逸材。私からしたらスーパーマンの様な人間です。
飲みの席でも要所要所で自己アピールをしたり、酒で上機嫌な先輩に上手く絡んでみせたりと、どのシーンを見ても「この子はすごいなぁ」と、ただただ感心するばかり。

一方私はというと、オレンジジュースを10杯近く頼んでは、目の前に現れる美味しそうな食べ物をひたすらパクつき、満足した途端にウトウトする始末。
気を遣って声を掛けてくださる心優しき先輩方にも「ノミカイキライ…」と譫言の様に呟くばかりで、自分でも「なんで来たんだ!」と怒鳴りたくなるレベルの体たらくを披露するのです。

「あの子はすごいなぁ。なんであんなに場に溶け込めるんだろう」

遠くの席で社長と戯れるHちゃんの背中を見ながら、オレンジジュース虫と化した私は無限に果汁をすすり、頭の中でぼんやりこんなことを思うのです。

 

「変わったなぁ…俺…」

 

Hちゃんの様な子のことを純粋に「すごい」と思う様になったのは、つい最近になってからのこと。
それまでの私はというと、「分かりやすく媚びてるなぁ。先輩らも違和感覚えないのかな。自分だったらあんな風にヨイショされたら不自然で気味悪くなっちゃうな」なんて具合に、彼の様な人間を穿った目で見る様な奴でした。

こんなことを言うと、「そうは言っても、腹の中ではその子のこと良く思ってないんじゃないの?」と疑われそうなものですが、35の私はハッキリ「ち…ちがうよ…」と断言します。
私は彼のことをズバリ「八方美人」だと思っていますが、私も私でその八方の一端を担う人間なので、彼は例外なく私にも優しくしてくれるわけです。よって、好きです(単純)。

「八方美人」という言葉を使うから妙な含みが出てしまうだけで、実際のところ彼の様な社会人は本当に素敵だと思います。
対極にいる私からすると、その見事な立ち振る舞いは「才能」に他ならないド長所です。

例えそれが多少無理をして作った表情や声色であったとしても、結果的にその場にいる人間の気分を高めてくれたり、それこそ先輩方からしたら「かわいい後輩が入ってきてくれた!」となるわけですから、そこには何のマイナスもありません。

「根は良い奴」という言葉を忌み嫌う私は、「5年に一度しか見せない根なら、4年と364日偽りの善人を演じていられる悪人の方が余程善良だ」と思っているので、嘘でも誠でも彼のような人間に強い憧れを抱くのです。

みんなで明るく輪になって笑っていても、「面白くないものは笑えないや」と、作り笑いのひとつも出来ない私は異常なまでに浮いていて、「これは本当に良くないぞ」と幾夜に渡って自省して自省して自省し尽くしても「やっぱ無理!」の結論へ辿り着き、あっけなく朝を迎えます。
情けない話ですが、これはこれで結構苦しいんです。

「笑えない」「ヨイショできない」という確固たる何かが「照れ」からなのか、はたまた「嫌悪」からくるものなのかは未だに分からないのですが、それが分かったところで無理なものは無理なんですよね。
「やろうとはしたんだよ本気で!でも!どうしても無理!うふふと笑うだけなのに!」と、まるで子供の様な言い訳を吐く35歳。救われるわけがありません。

「数が少ないものにほど価値がつく」
これは、宝石であっても高級果実であってもそうですが、私は人間性においても同じことが言えると思っています。
正確にいうと、この場合は「価値」というより「本質」に近いもの。

ヒトは、他者の持つ「極僅かな正と負」にほど焦点を当てたがる生き物です。

散々チヤホヤされていた彼が不倫をした浮気をした。
その噂を耳にした途端、ことの真偽を疑うことなく、それまでの彼の「良い点」が全て悪で塗り潰される。
「自分の人生にはまるで関係のない人間にさえ、こんな言葉をぶつけられるんだな」と、その人間性を疑うことすらも今や時代遅れなのかもしれないと思わされる程、それは見慣れた光景になっています。
最後は決まって「良い人だと思ってたのに、最悪な人間だったね。ちゃんちゃん」で一丁あがりです。

善悪が逆の場合も同じで、普段悪態をついている人間がたまに見せる善意に人は心を震わせます。
1年ほど前にこんなアンケートをしてみたことがありました。

この結果を前にして、私は自身が少数派であることを知らされました。
「なんだ…あのキャラは演じられたものだったのか…」とガッカリしてしまうあたり、本当に幼稚なんだなと、新たな短所の息吹を感じた瞬間でしたね。

こういったことから、「見慣れない姿」が与える印象の深さというのは、なかなかに強烈なものであることを実感するのです。

ちょっと話は逸れますが、例えばボーカリストを本業としているバンドマンがギターを弾き出した途端に「キャー!ギター弾けるの!?ステキィィイイ」と称賛を浴びたり、お笑い芸人が役者をやったときに「バラエティーのときと全然違う!かっこぃぃいい」と絶賛されたり、そういった「知らなかった一面」に人が興奮する理由もまた、似た様なものなのかもしれないなと思いました。
安定した「本業」よりも、見慣れない「副業」の才の方が観る者にとっては価値の大きなものに映るのかもしれないわってね。

考えれば考えるほどに、「人はレアなものが好きな生き物なんだなぁ」と思わされます。
職場における私の笑顔もまた、そういった意味で希少なもの扱いされているのかもしれませんね。あぁかなしやかなしや。

「誰にでも公平に優しくできる人間になる様に」
そんな願いを込めて、私に「公平」という名前をつけた母。
しかし、それは思いもよらぬ方向に向かってしまった様です。

「誰に対しても忖度できず、変わらぬ態度で接する公平さ」
そんな歪んだフェア君が今後どの様に改心していくのかをみなさまにも見届けていただきたく、今後もちょこちょこブログを更新していこうと思う所存ですので、もし宜しければ今後もお付き合いください。

というわけで、本日は「東武動物公園に売っている傘は鬼スモールサイズだから、雨が降りそうな日に行くなら、ちゃんとしたサイズの折り畳み傘を持っていくべきよ」というお話をさせていただきました。

いやはややってられんね人生は。
でも、「どうにかなるさと戯けても どうにもならないことがある」なんて、森山さん家の直太朗さんが唸ったかと思えば、LIPHでLICHな久我の新悟さんも「無理なもんは無理」って歌っているし、結局はありのままで生きていくしかないのよねきっと。

あんまり数はいないと思うけど、私みたいなタイプの方がもしここを見てくださっているのなら、同志として一言エールを送らせて。

「まじ、じごくだよな!」

おやすみなさい。良い夜をー。