わたくしごと

青い追悼

ドラッグストアの駐車場で購入品をがさごそ整理していたら、LINEがピコン!
未読通知が10件以上入っており、なんだか不穏な雰囲気。
おそるおそる確認すると、普段頻繁に連絡を取っているわけでもない人間も含め、多くの知人(プラス母)から通知②の嵐。

一番上にあった友人のメッセージをタップしたところ、真っ先に飛び込んできた「これ、公平さんの家の近くじゃない?大丈夫?」という文字。
ご丁寧に貼り付けられた謎のURLをクリックすると、そこには大火事を報せるニュース記事が表示されました。
見慣れすぎた県名&区名&町名に唖然とした後、ゴウゴウと燃える一軒家の写真を見て言葉を失う。
焼けていたのは、私がよく通る道沿いの二世帯住宅でした。

お話こそしたことがないものの、コンビニの前でよく見掛けていたおじさんを含め、三人がお亡くなりになったとの訃報。
つい数日前に友人と「最近人が亡くなったっていうニュース多すぎない?」という話をしたばかりだったのですが、こんなにも身近で起きてしまうとは思っていなかったので、ひとり車中で落ち込んでいました。

テレビでは、才能のある人間が若くして自ら命を絶ったとの報せ。
いくつも重なる訃報を目にするたび、超がつくほどの無関係者ながら「どんな悩みがあったんだろう」と考えてしまいます。

「そこまで成功していたら、死ぬことなんてないだろう」

無責任にそんな考えが過るのは、案に彼らの努力と才能へ向けた醜い嫉妬のせいでしょう。
しかし、言葉以上に「人には当人にしか分からない苦しみ」があるもので、身近な人でさえそのすべてを理解することなど到底不可能なわけです。

不謹慎と思われそうですが、私は著名人の訃報を聞いたとき、その方のSNSを見に行くことがあります。
遺された最新のツイートには決まって大量の追悼リプライがついていますが、そこには目もくれず、その方の訃報が届くよりも遥か前に投稿されたツイートを確認するのです。
そして、今度はそのツイートについたリプライの送り手のアカウントを見に行きます。
いわゆる「亡くなったから書いた方」ではなく、「生前からその方に言葉を掛けていた方」の今の気持ちを知りたい。ただその一心で。

前後なんて関係ない!そうかもしれません。
私自身も「口にしていないことは思っていないこと」とする考え方は好きになれませんが、「想い」における言葉の信憑性は発言数に比例するものだという考えは拭えなかったりします。

「好きでいる」「応援している」「期待している」その想いを声や文字にして直接本人に伝えること。
普段からそれを怠らない人の素晴らしさと、その言葉がもたらす大きな大きな影響力を私は知ってしまっているので、そういった愛らしく誠実な人の言葉だけを聞きたいのです。
これは、私の命が潰えるまでずっと抱え続けるであろう「共感の順序に覚える違和」に起因する捻れた欲なのかもしれません。

 

人が他者の幸せを願う姿と、人が故人を悼む姿には似た美しさが存在する。
私がそう思う様になったきっかけとなる出来事がありました。
それは、レイヴのみくるさんが亡くなられたときのことです。
彼の訃報を聞いた瞬間、営業時間中にも関わらず、その場にいたスタッフが一気に崩れてしまったあの夜の空虚感を忘れることなど出来るわけがありません。

幸いにもそれまで身近な人の死を経験したことがなかった私にとって、お姿をずっと近くで見ていた方が亡くなったという事実は非常に重たいものでした。
急遽お店の地下のイベントスペースでファンの方にもご参加いただける献花式を開催することになり、当日までにあらゆる手を尽くして準備を進めた日々のことも感情単位で鮮明に覚えています。

当日は雨。
冷たい風にも耐えられる様、交代制でスタッフを配置し、心苦しくも献花されるファンの方々を一番近くで見届けることが我々の責務でした。

悲しみに震える指先で手向けられた白い花々。
時折差し込まれるみくるさんをイメージした青い花。
涙を拭いながら俯くファンを見つめる衣装とギター。
正面に飾られたみくるさんのパネルをゆっくりと見上げ、静かに手をあわせるその姿は眩い程に美しいものでした。

言葉こそ矛盾してしまいそうですが、弔いは故人の未来へ向けられた祈りであり、残された者にとっての願いでもある様に思えました。
「確かにここにいた」「これだけ愛されていた」という証明をいざ目前にすると、その事実を誰よりも近い場所で確認できたことが誇らしく、ここに居られたことを心底光栄に思ったものです。

あの日のことをぼんやりと思い返している今、なにげなく検索をしてみたら、明後日26日にみくるさんの追悼ライヴが開催されることを知りました。
これは偶然なのでしょうか。

このタイミングで規制緩和がなされ、SOLDしていたチケットが追加で販売されること。
コロナウイルスの影響により、レイヴの解散ライヴが延期となったこと。
もう一度尋ねます。これは偶然だと思いますか。

私には、地上のヒトにゃ施せない美しき延命に思えてならないのですが。

 

懸命な闘病生活の末に亡くなられるのは、言うまでもなく辛く苦しいことです。
ただ、あの日関係者の一人が涙を流しながら口にした、やるせなくも温かい言葉を今でも忘れられずにいます。

 

「みくる君はさ、頑張ったよね」

 

濡れた口角をほんの少しだけ持ち上げ、彼を愛する仲間たちを見回しながら呟いたそのたった一言に私は救われたのです。
また、その声を受け取ったみんながみんな「うん、頑張ったよ。本当にね」と頷き合う様を見て、「愛だなぁ」なんてぼんやりと思ったあの愛おしい時間のことも忘れはしないでしょう。

そうして私は、改めて「伝えること」の大切さを痛感するのです。
生死を問わず、会えなくなった人のなかで自分の言葉が生きているかもしれないと思うと、感謝の気持ちを伝えることも怠けずに済みそうですしね。
いやはや言葉ってやつは、つくづく腹持ちの良い魔法だぜ〜。

 

ということで、今日は「ねこねこ食パンってふわふわ過ぎてカットしづらいよね」というお話でした。

しかし味は超一級品

なにをどうボヤけどツヅれど、私はあなたのことを知りませんし、あなたも私の姿を知らないわけですから、お互い勝手っちゃ勝手だけども、なんとなく、本当になんとなく生きていてもらえたら嬉しいなと思います。
できれば時々嬉しいことがあってキャッキャしちゃったり、じんわりと幸せを感じて思わず立ち止まってしまう様な日常のなかでね。

どうぞお元気で。
おやすみなさい。