わたくしごと

人はいつだって、自分の出番を待っている

「あー私ADHDかもしれない」

「HSP、あぁそれそれ!私絶対これだわ!」

「私、○○恐怖症なんだよね」

ぼくは○○症候群

あたいは○○依存

あいつはアスペルガー

みんなで合唱 共感性羞恥!共感性羞恥!!

 

まぁまぁうんざりする。

 

ネットを眺めていると、「人ってのは、いつでも自分の出番を待っている生き物なんだなぁ」と思わされることが多い。
例えそれが深刻な病やポジティブにはとれない特性であったとしても、自らを何かしらの箱に収めることで心を落ち着けようとする…というより、むしろそれに興奮を覚えているような気さえする。
もっとも表に出しているそれは実寸大の興奮でなく、「自分だけじゃない」という安堵から生まれる「わずかな高揚」を大袈裟に表現しただけの嘘っぱちに見えてならないのだけれど。

すみっコぐらしの第一弾映画を「トラウマ鬱映画」だのなんだのと騒ぎ立てていた人間もそう。
当人じゃないから正確な気持ちの大きさは知る由もないが、それを加味したうえでも「これはさすがに大袈裟すぎるな」という感想があまりに多く、「この人は自分が泣いたという報告をしたいがために映画館へ足を運べるタイプの人間なのかもな」とまで思ってしまうくらいだった。
やがて肥大化したその欲は「すみっコ映画は実質○○(鬱・涙要素の高い別作品名)」といった大喜利大会に発展。
いつしかそれは、その作品のファンや、すみっコファン全体へのヘイトにも繋がっていき、結果的に何が残ったかというと「得意気に言ったもんが得られた快感」だけ。
虚しいったらない。

でも、残念ながら、こんなことは世に溢れている。
ファンがアーティストや作品を余所様の芸術と天秤にかけながら崇め奉ることで大層気味悪がられ、宗教・信者・盲目などと揶揄されては、作品とはまるで関係のない部分でその対象に泥を塗ってしまう流れだ。
それを目の当たりにするたび、「宗教を作るのは、教祖でなく信者である」という私のくだらぬ自論がまたひとつ、確信へと近づいていく。

 

人はいつだって、自分の出番を待っている。

 

Twitterには、最大4択まで設定可能な「アンケート機能」というものがある。
私も「ちょっと気になるな」と思うことがあった際に何度か設置してみたことがあるが、なんてことない質問であっても、1日置いておくと150件ほどの回答を集めることができるので、毎回律儀に驚いていたりする。
便利ねぇと思うと共に「これもきっと見ている人に出番を与えたこと」によって生まれた現象なんだろうなとも思う。
「与えた」というとなんだか偉そうで嫌なので、「お任せした」のニュアンスで受け止めてもらえたら嬉しい。

ただ読まされるだけのツイートと違い、「あなたはどうですか?」というアンケートは、見る人に参加権を与えることができる。
Twitterのアンケート機能に限らず、自分の発信を大きく広めていくためにはこれがとても重要なのだろう。
「自分事として考えてもらうことが最重要!消費者を巻き込め!」なんて、どこぞのインフルエンサーやマーケティング大好きっ子が言いそうなことだがそりゃあそうだ。
「言う口はあるが、聞く耳はもたん」という思想のもと、あらゆるSNSでコメントやメッセージを受け付けない設定にしている私の様な人間が出る幕などない。

「あなたの選択を知りたい」と思っているときに「わたしの答えはこうよ」と返していただけるのは非常にありがたい。
不特定多数の人に疑問を投げかけることなんて、普段の生活ではまず出来ないことだから。
ただ、あまりに深く考え過ぎるが故、設置していない架空の5択目を作り出し、その見解をリプライで語り出すタイプの人は苦手だからと、アンケートのツイートにおいてもリプライを受け付けていない無礼者がいるらしい。誰だ。私だ。

つくづく嫌な性格をしていると思う。
「聞いていることだけに答えてほしい。該当しなければ無視してもらってOKでござる」と。
こうも社交性も社会性もない大人になるとは、5歳の頃の私も思っていなかったはずだ。
これにはまぁまぁどころでなく、大分うんざりしている。
良い薬が開発されることを期待する。

アンケートの形から逸脱し「需要」と「供給」のバランスが著しく崩れた形での主義主張に私はすぐやられてしまう。
怒りとも呆れとも違う「無」のスイッチが入る。
求めている以上のことを与えられると思考の脈拍がゼロになるのだ。
それがひとつふたつならまだギリセーフだが、その手の「望まれぬ供給」が膨れ上がったときに決まって脳裏をよぎるこの一言を胸に留めておくのに必死になる。

 

「別に今、君の細かい意見なんて求めていない」

 

これ!これこれこれー!!

 

アンケートどころか質問でもなんでもない、人がただ思ったままを書いたこと、話したくて話しただけのこと。
それを目にしたとき、変なスイッチが入ってしまうタイプの人がいすぎるほどいる。
自分が得意な話題にだけやけに敏感で、求めちゃいないのに「ハイハイ!」と手をあげるYOKUBOU丸出し人間。まじ苦手だ。

私がYouTubeチャンネルへのコメントを受け付けていない理由もここにあったりする。

動画投稿を始める前から、私にもいくつかお気に入りのチャンネルがあった。
そこで「うわ、こんなんだったらコメントなんて開かない方がいいや」と思わされる事故をやたらと目にしてきたのである。
それこそが、先ほどお話しした「需要なき供給連中」の到来だ。

例は数多くあれど、だいたい同じようなもんなので、ここでひとつ実例をあげさせてもらう。
それは、私がたまたま興味を持っていたジャンルで学習系のコンテンツを更新しているチャンネルでのことだった。
「はぇ〜やっぱりチュートリアル系の動画って作るの面倒そうだなぁ」と思いながら、彼の説明通り操作をこなし、「へぇーこういう風にやればできるのか」と感心しながら最後まで動画を再生したあと、なんとなくコメント欄に目を向けてみると…いるわいるわ供給くんたちの群れが!

御手製の図解などを用いながら、初心者にも分かりやすいよう配慮という配慮を重ねた丁寧な30分弱の解説動画。
しかし、そこについていた3件のコメント中3件が動画内でたった一度だけ言い間違えられた用語に対しての揚げ足だった。

 

「それを言うなら××じゃないですか?確認してから投稿した方がいいですよ」

「21:08のところ、〇〇じゃなくて××ね」

「チュートリアル作るなら間違えんなよwあとそのやり方相当効率悪いけど実務経験ない?××(ソフト名)使うのはまだ早いね。はいやり直し」

 

これ、伏字を除いてすべて原文ママである。
それらのコメントに対し、投稿者は「確認不足でした。申し訳ございません。ご指摘ありがとうございます。貴重なご意見に感謝いたします」とひとりひとりに返事をしていたが、私はすぐさまモニターへ飛び込んで彼の部屋へ行き、こう問いたかった。

 

「本当は”貴重なご意見ありがとう”なんて思ってないでしょ?60往復ビンタしてやりたくなるくらい腹立ってるでしょ?」と。

 

あくまでも私の概算に過ぎないが、あの動画を作るには台本作り・カメラ割りの構成・撮影・編集だけでも軽く30時間はかかっていると思う。
「常に一歩先の手順を考えながら口頭で説明をしつつ、不慣れな方が遅れないペースで操作を進めていく」という行為はマルチタスクが超苦手な私のみならず、誰にとっても超大変。
解説に至るまでの学習時間も加味すると、そりゃあもう膨大な手間と時間が投じられたことを容易に想像できる。
しかし、それすらできない人もなかにはいるのだ。

先に話した通り、供給マンズが投げつけた指摘は、たった一度だけ用語を言い間違えた箇所に対してだった。
テロップでは間違えておらず、それによる弊害など一切ない超超超些細なミスだ。
実際、彼の言う通り操作をしてみた私は全く困ることなく、その動画でひとつの技術を習得することができた。
でも、自称専門家・自称有識者はそれを決して許さない。

彼の出した30分の動画に対するコメントがただの揚げ足祭りだったこと。
私の思う「一般的な良識」を持っている人であれば、「まぁこれくらいのミスは誰にでもあるわね」と思うに留めるか、指摘するにしても彼やその動画を視聴する初学者を気遣って、もう少し言葉の使い方を考えるだろう。
批判どころか、明らかにそれを凌駕するだけの労いの気持ちしか生まれないような素晴らしい内容だったからだ。
「この労力に対して、こんな物言いをされたら酷く傷つくだろう」なんて、例え一本も動画を作ったことのない人にでも分かるはず。
ただ、どうやらそうじゃなかったみたいだと。
その程度の想像もできない人間が登録者1000人未満の彼のチャンネルに3人も存在したぞと。これを地獄と呼ばずしてなんといおう。

 

話は変わる様で変わらないが、私は人生で人を嫌いになったことが2度しかない。
相手は二人だが、嫌になった理由はたったひとつ。
それは、彼女たちが「著しく想像力の欠けた人間」であったことだ。

「とにかく自分の人生(視界)からいなくなってほしい」という思いが湯水のように湧いてきて、そうまで願ってしまう自分の醜悪さに耐えられなくなってしまった覚えがある。
36年の人生でたった二人しか出逢わなかったその手の人間が、ネット上には五万といる。本当に恐ろしいなぁと思う。

Googleアカウントと紐づいているとはいえ、匿名に限りなく近い立場だからこそ、実生活では発揮できないくらいの大技を繰り出してしまうのだろう。
そこに快楽を覚える気持ちはまったくもって理解できないが、そういう人間もいるという事実はイヤでもなんでも認めなくてはならない。
ただ、普段頻繁には使わないアカウントに入り直してまで or わざわざそれを言うためだけにアカウントを作成してまで他人を攻撃している輩に関しては、「匿名なのにどんだけ臆病なのよ」と、その心臓の脆弱さがかえって心配になったりする。よく生きてるなと。

 

そして、私がコメントを受け付けないのにはもうひとつだけ理由がある。
それは「コメント欄で起こるくだらない喧嘩の目(台風の目のメ)になりたくない」という思いだ。

趣味でYouTubeを見ている方なら、おそらく何度も目撃したことがあるだろう。
コメント欄において、投稿者の意図とはまるでズレたところでヘンテコな言い争いが起こり、双方の煽り合いがツリー状にズラーッと続いているあの現象を。
人様のチャンネルながら、今思い返しただけでも鳥肌が立っちまう。イヤッ!

私の場合、初投稿時からコメントは受け付けない設定にしているので回避できているが、もし自分のチャンネルを例にあげるとすると、私が思い思いにアーティストを紹介する『アーティスト図鑑ザ・ムービィ』というコーナーなんかは恰好の餌食だろう。

例えばそこで「A」というバンドマンを紹介したとする。
すると、Aさんを熱心に応援しているファンのB子さんから「そのCDが出たのは2085年じゃなくて2086年ですよ!」「その人の一番好きな食べ物はもう変わってます。先週のライヴで言ってましたよ。もしかしてライヴに来てないのに語っちゃってるんですか?」といったようなコメントがつく。
その程度の文句であれば、私も素直に「間違えました。ごめんなさいねぇ」と舌を出しながらペロッと返信するだろう。
これにて一件落着~~~ならいいの…だが〜?

そのやりとりを見たC男から「いちいち細けーな。どっちでもいいだろ」という返信がついちゃった。ああたいへんだ。
もうここからはご想像の通り。
多分こんな流れになるだろう。

 

B子「こういう解説を目的としたコンテンツで正確なデータを言わないのは良くないと思いますが?」

C男「は?その1年を間違えたところで何か困ることあるの?」

B子「困る困らないじゃないです。間違えてるんだから正すべきでしょう」

C男「困らないなら別にいいんじゃん。うるせーな信者はよー」

はいどうどうめぐり〜

 

でもって、それを見ていた他のバンドのファンが「うわ、Aのファンってこんなめんどくさいんだ」と、例の宗教樹立パターンが成立 de 二次災害。
もちろん私への「適当なこと言うなや」というB子ちゃん派も多くいるだろうが、どちらにせよその「目」にはなりたくない。

で、だ。
コメント欄でこんな小競り合いが起きた際、投稿者である私がどう思うかというと、ズバリこう。

 

「おいC男、頼むからもう黙ってくれ」

 

なんとなんと、私の味方をしてくれている優男Cにまさかの「ハウス」を命じるのだ。
何故かと言うと、私が誤りを認めたことで「まぁ謝ってくれたならいいわ。コメントで訂正できたし」と納得してくれたかもしれないB子(まぁこういうタイプの子は納得しないんだけど)が、私とは無関係なC男の登場によって更に心を乱され、結果的に私や私に好意的な目を向けてくださる方への反目意識を余計に高めるからである。
強烈なアンチというものがこういう小事件から生まれるというのは、これまで何度も体験してきたことだから間違いない。
「バンドは好きだけど、ファンが嫌だから上がった」というこれ以上ないほどに悲しい事例たちのなかにも、これと似た現象が多くあったことだろう。
「自分の嫌いな人間が評価されている・かばわれている状態」を何よりも不快に思い、攻撃へと走ってしまう人間。
その数の多さ・厄介さったら、きっとあなたにも察してもらえるはずだ。頼む察してくれ。

 

現に私も過去に何度か「私の方がお前よりそのバンドのことを知っている」という類の言葉をいただいたことがある。
それを目にしたとき、私は自身のミスにではなく、「私が作っているものがこの人には知識自慢に見えている」ということに愕然とするのだ。ショックというより「うそぉ〜ん」って感じで。

私は自分のことを、アーティストや音楽・シーンについてデータで語る理系タイプの方たちとは結構距離のある「THE感情論や思い出話ばかりする文系ヤロウ」だと認識しているので、対極にあると考えていたその箱に入れられたことをどうしても不思議に思ってしまう。

でも、感じ方なんてのは人それぞれで、「私がどう思っているか」と「あなたがどう感じたか」がイコールでないケースなんていくらでもあるし、「そう伝わるだろう」と無意識に驕っていた己を恥じる方が余程利口だと、26を過ぎたあたりからそう考えるようになれたので、それはそれで成長ということにしておきたい。

ただ!それでもこれだけはどうしても言わせてほしい。
私は「解説をする」なんて名目でアーティストや作品を紹介したことなど一度としてないのよ。
「誰のために」ない。
「どういう意図があって」ない。
無礼なまでに、ナイッ!

そもそもが「解説」なんてのは、作品であれ、人間性であれ、当人にしか出来ない行為だ。
だって、私もあなたも確固たる「その人の正解」なんて知らないのだから。
なのにも関わらず、「君の解説は的確だねぇ」なんてことを仰る方も多くいて、褒めてくれているんだろうけど、私は非常にモヤモヤだ。
「正解を知らない私に”解説”なんてできないし、”的確”かどうかを判断できるのも当人だけなのだから、第三者に言われても困る」と。
アーティストご本人から「的確な解説ありがとう」なんて言われた日にゃあ眠れなくなるほどのモヤモヤモヤに襲われる。
「細かすぎる性格グランプリ」があったら、割といい線いけると思う。
つべこべ考えず、素直に受け止められるようになる良い薬。早くして。

 

「またどうでもいいことを書いちまった」とぼやきながらスマホに触れると「今日でTwitterをはじめてから10周年です!」との通知。
反応という反応などない寂れたアカウントではあるが、よくもまぁ10年も触ってきたもんだなぁと思う。
フォローしてくれている方のなかに私の姿形を知っている人なんて2人もいないし、当たり前に友達など一人もいない。
それでも「なんとなくそういう人がいて、なんとなく暇だから見てる」くらいの方が割といてくれているという状況の摩訶不思議さは、これからもずっと面白がれることだろう。

そんな感じで、今後とも適当によろしくお願いしますねというお話でした。
はぁ~~~今日も寒そうだなぁ~。