わたくしごと

人の目を見て話せない

私は人の目を見て話すのがとても苦手です。

いや、苦手どころの騒ぎじゃない。できないが正しい。
なんなら人から見られるのも超苦手で、特に自分が努力の真似事をしているときや一生懸命になっている姿なんかを見られようものなら、その5秒後には飛行機の予約を入れ、60分後には奄美大島へ飛び立つことでしょう。

みられたみられた。
想像しただけでNoNo!
たまったもんじゃない。
これ、Aメロの歌詞です。

「あいつが必死になっているところを見た」という記憶がそやつの頭から抜けるまでは奄美に居よう。
「見られちまった…」と呟きながら、浜辺で仰向けに倒れよう。
右手に持った黒糖の香りにときどき甘やかされながら、波の音を聞いていよう。
夕暮れ時、足元に流れ着いた手紙入りの小瓶に気付いたら、中身を確認してみよう。
「あなた、あのとき、努力してましたよね」とあったよう。
たまたまポケットに入っていた焦げ茶のクレヨンで裏面に「してません」と殴り書き、再び海へ投げ込むとしよう。
それが差出人のもとに戻るまでは、本州にゃあ帰らないよう。
そのくらいに、そのくらいに苦手なんだよう。

 

人は勤勉な生き物です。苦手を克服しようとします。
しかし、私はどうかというと、これに関しては一切改善する気がございません。
特に問題だと思っていないからです。

「人の目を見ないなんて失礼じゃないか」と一度でも誰かに怒られるなり指摘されるなりしたならちょっとは考えると思いますが、今のところ上司からも身近な仲良したちからもそれについて何かを言われたことはないのでOK。
思われていても言われていなければ大体セーフ。
周囲の人の優しさに甘えつづけていく所存。

 

ただ、人の目を見て話さない生活を36年も続けていると、それなりに支障が出ることもあります。
一番大きな問題としては、人の顔を覚えられない。
そりゃそうだ。見ていないんだから。

そんな私にとって、その人を「その人」と認識する材料は、「声」と「仕草」と「会話の内容」の3つ。
コミュニケーションにおいてただそれだけが命綱で、人様からすれば「なんちゅうタイトロープを渡っているんだ」と思われそうなものですが、「顔を見る(表情の推移を追う)」という非常に忙しない作業に費やす労力を上に書いた3種の命綱に全振りしているため、そこにあてた集中力と精度は驚くべき高さです。自負だね。

現に私は昔から「なんで人の考えてることが分かるの?」と聞かれることが非常に多いです。
答えは簡単。「人のことを見ていないから」。

私が思うに、人間は表情こそ器用に作れても、声の抑揚や話の間を繕う・操る能力には長けていません。
おそらくそれは、普段から意識していない部分だからでしょう。
無意識な行いの連続によって沁みついた、言わば「習性」を今更どうにかすることなど出来はしないのです。
何故って、無意識だから。
己の口癖にすら気付けないのがその証拠です。

声と間に注目すれば、嘘を見抜くのは意外と容易だったりします。
しかし、なかには自分の嘘が私に気付かれていることに気付く人もいます。
もっともそれは、「気付いていない振り」をする気がない私のせいでもあるのですが。

 

「嘘だけど、信じてくれるかな」
「信じるわけないだろ」
「やっぱりそうだよね…」

 

そんな、肉声よりも大きな無言のやりとりは互いにとって超意識的であるため、相手は分かりやすく「やば、これ絶対バレてる」という焦りを見せます。
「絶対に騙せる」という自信だけで嘘をつく人なんてそうそういたもんじゃなく、嘘をつく側は、つかれる側よりも遥かに警戒心が高いものです。
その警戒心こそが違和感の親玉なのですから、もうバレッバレ。
この期に及んで恥じらいもなく力技でいこうとするのなんて、マルチ商法に溺れた輩くらいなものでしょう。

「気付くこと」に過敏になると、話し始めの数文字を聞いただけで、この人がこの後どんなことを言ってどう着地するかまで見える様になってきます。
特殊能力でもなんでもなく、人にはそれぞれ思考に癖があり、それはそのまま声色や話の組み立て方に表れるのです。
なにを材料に類推しているかと言われると、過去の会話の内容とそのときの様子。ただそれだけ。
先程お話した全振り集中によって綺麗に整頓された記憶たちが私に囁く囁く。

 

「この話、多分こういう流れになると思うよ」

「この子がこう言うときは大抵ああいうときだよ」

「多分、この子一ヶ月後には振られてるよ」

 

だいたいあたる。
というか、はずれたおぼえがない。
根拠という根拠はない。「前もそうだったから」の一点張り。
言葉にするとなんとも信憑性に欠けますが、これが怖いくらいの的中率なのです。

 

顔なんて見ないよんが熟練を極めたおかげで、私は生まれてこの方、人に裏切られたことも騙されたことも人間関係で病んだ経験もありません。
騙すのが好きな人間の標的になるのは決まって、少し弱っていて、抽象的な言葉ででも肯定されたくて、一生懸命相手の話を聞いてしまうタイプの人。
「こいつ全然俺の話聞いてねぇな」ってな私相手に一生懸命詐欺を働くなんて、コスパが悪すぎます。
小学生の頃から通知表の備考欄に書かれ続けていた「人の話を聞かない」という短所がここに来てようやく昇華した模様。ちょっと嬉しいけど、ちょっと虚しい。

私が相手の顔をよく見る&人の話をよく聞く人生を選んでいたとしたら、こうはなっていなかったのでしょう。
そう考えると、結構ラッキーな特性なのかもしれない。
とはいえ、15年来の友人と会った際に「あれ?この子、こんな顔だったっけ?」と混乱したときはさすがにまずいと思ったけどね。

 

そんな顔見知り(ここでいうそれは人見知りの顔バージョン)な私にとって、「ドライブ」という遊びは最高の娯楽です。
助手席の相手とは同じ方向を向いているから目を見る必要がないし、少し手を伸ばせば飲み物も好きに飲めるし、車内温度はエアコンで快適そのものだし、カーオーディオも良い音してるし、知らない道を行けば知らないものがたくさん左右に流れてくる。
「いやなこと」といえば、令和4年1月現在のガソリン代が異常に高いことくらい。
レギュラーガソリンが170円台に突入するなんて、昭和60年の私は思いもしませんでしたから。
無免許 or ペーパードライバーなバンギャル子には、いまいちこの価格設定の残酷さが伝わらないと思うので、近しい感覚をあげるとしたらそうだな。
「ドリンク代800円」「ピノ230円」ってとこかな。
嫌でしょ。そうなの、いやなのよ。

 

そんな私ですから、クレープ屋さん、たこ焼き屋さん、ギフトラッピング係の職人さんたちを心から尊敬します。
あれだけお客から見つめられても安定したパフォーマンスをキープできるんだもの。ショッピングモールの隠れレジェンズだわ。

というわけで、今日は「見つめないから見つめないで」というお話にお付き合いいただきました。
女性のなかには時にすさまじい眼力で相手の顔から視線を外さない人がいるけど、私はその姿勢から並々ならぬ自信を感じて、嫌がりながらも羨ましく思います。
もしあなたがそういう人であれば、どうかそのまま気高く強く生きていってください。
できれば、私とは出逢わないままでね。

それでは、良い週末をお過ごしください。
2月がやってくるよ~。