言葉のこと

自家製憤怒栽培中

先日、友人と話しているときにこんなことを言われました。

 

「公平さん(私)はずっとボワーンとしてていいよね」

 

意味が分からない。
詳細を尋ねると、どうやら「他人の目や言葉に影響されない」というようなことを言いたかったみたいです。
言い方こそ多少異なれど、これはいろんな方から定期的に言われることだったりします。
ボワーンの擬音は未だによく分かんないけど。

 

「他人に影響されない」
これはもう昔の昔からです。
親と先生からは「人の話を聞かない」という罵倒ニュアンスによるものでしたが、意味としては大体同じでしょう。
ただ、影響されないと言ってもそれは対「他人の言葉」に限った話で、それ以外の、例えば感性の部分なんかでいうとあらゆる影響を受けていると思います。
好きな音楽とか、キイロイトリとか、ホワイトモカとかね。
単純に「人様の言葉に心を乱されない」というだけのことです。

思えば、私には「他人に言われて傷付いた言葉」というものがありません。本当にまったく思い当たらない。
36年も生きてきたので、なにかしら言われてきたはずではあるのですが、「例えばなに?」と聞かれても答えが一向に浮かばないのです。
これはもはやメンタルの問題ではない様な気もしてきたぞ。こわい。

ただ、そんな極鈍感な私とは違い、多くの人の心はとても繊細に出来ていて、少しの反対意見や否定の言葉でしおれてしまいます。
実際、それに打ちひしがれる人の姿をいくつも目にしてきましたが、彼らを見る度にこう思うのです。

 

「なんでそんなことで悲しくなっちゃうんだろう」

 

苦しまれている手前、もちろん口にはしませんが、私にはその理由がいまいちよく分かりません。

「イヤなことを言われると嫌な気持ちになる」それは当然か。分かるぞ。
でも、そう言ってきた人間から時間も場所も離れた今尚、ずっとその言葉を反芻して傷付いて顔を歪ませつづけてしまう心境に関しては、まるで分からない。

そして、更に理解不能なのは、他人にすぐ文句を言いたがる人の精神性です。
あれもこれも思ったことを我慢せずに口や文字にする、SNSにおいては大量に存在するタイプの民族ですね。
本質的に「病んでいる」のは、むしろそちら側なのではないかとも思うくらいです。

私には「年上であろうが年下であろうが、初対面で敬語を使わない人間とは絶対に付き合わない」という鉄の掟があるので、「きみだれ?」ってな相手に突っかかられている方を見掛けると心から「災難だなぁ」と思います。
でも、そこには何かしらの行動原理があるのでしょう。

私ももう結構な大人だ。
「分からない」で片付けるのもどうかと思うわ。
馬鹿なりに、ちょっと考えてみよう。

 

「気に入らない人がすることは、どれもこれも気に入らない」

まぁ分かる。
※でも、わざわざ突っかかる程のことか?
会ったこともない人間相手に?
文字をポチポチ打ってまで?
最後にもう一度だけ君に言うよ
会ったこともない人間相手に?

※繰り返し

 

そうやって、何にでも口を出したがる理性非搭載の人を目撃したときに決まって思うことがこれ。

 

「君には弁がないのか?」

 

この「弁」というのは、私のイメージでいうと脳から唇の間に設置されたドアみたいなものです。これが結構愛おしい邪魔者なんですね。

例えば、顔も知らない他人から悪意にまみれた言葉を投げつけられたとして、「あぁこいつは許せないな」なんて思うことがあったとしましょう。
でも、私の脳唇間にはいくつものドアがあり、そのドアには大きな口がついています。
以下、私が手前のドアから順になだめられている様子でございます。

 

ドア「こいつに反論したところで、何か良いことあるの?」

 

答えはYesだ。だって、スッキリするもん。
それに無礼なことを言われたのだから、言い返す権利はあるはずだ。
一回の表で終わる試合なんて不公平もいいとこだろう。後攻は私。
よーし、二度と立ち上がれなくなるくらいの言葉でギッタギタに傷付けてやるぞ。

ギィィィィ(ドアを開ける)

 

ネクスト扉が問い掛ける。

 

「一瞬頭に血が上っただけでしょ?感情任せに物を言うと、ろくなことにならないよ。もう一度考えなよ。いちいち言い返すほどのこと?」

 

答えは……うーん…い、イエス。
確かに言い返すほどのことではない気もする。
別に私とは無関係な人間だし、置き去りにしておけばいいだけか。
いや、でもなー…ちょっとくらいは嫌な思いさせてやりたいな。

ギィィィィ(ドアを開ける)

 

ネクスト扉が問い掛ける。

 

「それを言ったからってこいつの性格は治らないってば。言うだけ言えばスッキリするかもしれないけど、この手の奴は暇なうえに粘着力がセメダイン級だから、反撃したら後生君の発言に張り付くに違いない。それに、怒りを口にしたら”それを口にした”という記憶が君のなかにずっと残り続けるけど、それでもいいの?」

 

答えは……おぉぉぉんNo!!!
そうだな。自分のなかに留めておけば、反撃後も続くであろう不毛な時間がナシになる。
文字でも声でも、発したものはむしろ自分のなかにほど残るものだ。
一応は自分のスペースでもあるTwitterに品のない言葉を残すのは嫌だな。
よく考えれば、結果的に負債を抱えるのは私の方じゃないか。不健康だ。やーめた。

 

というように、受ける→考える→口(文字)にする、の間で何度も足止めをくらうせいで、熱がどんどん冷めてしまう。
中傷めいた言葉を見る→返信画面を起動する→文字を打つ、この動作をしている僅かな時間ですら怒りの感情がもたない。
そう、私の怒りにはスタミナがない!

 

一時期「アンガーマネジメント」という言葉をよく耳にしましたが、そのなかに「6秒ルール」という掟があるそうです。
それは「他人に憤りを感じたら、黙って6秒待つ」というルールのことで、怒りを鎮めるのに大分効果的なんだとか。
私が感じている「何枚ものドア」は、その6秒を稼ぐために本能的に設えたものなのかもしれません。
まぁ体感としては、50秒くらい停止させられているんですけどね。
なんせ数が多いので。ポイフルかってくらいに。

何かにつけて他人の人生・思想に口を出したがる人には、そのドアがひとつもないのでしょう。
なんなら、怒りが脳に到達していない様な気さえします。
耳から口へ直結!これが駅と店の関係なら最高の立地ですが、人体となると話は別。むしろ最悪です。

私の自論に「文字を打つ指は口に、文字を書く指は脳に繋がっている」というものがあります。
特にSNSにおける指は口そのもの。
ここでいう口とは、「脳と繋がっていない口」を指します。
独立した物言いマウスはまじ厄介です。手軽さは悪を助長しますからね。
SNSがもし、ペンを取って文字を書かなければ相手に思いを伝えられないツールであれば、発されずに済んだ悪意も多くあったことでしょう。

脊髄反射だから、本人にも止めることができない、それは言わば重度の病。
でも、一番の問題は当人が重症であることに気付かないまま、今日も明日も誰かしらを否定すべく刃渡り∞cmのナイフを振り回し続けることです。
「誹謗中傷・難癖・揚げ足取りが趣味です!」なんて清々しく公言する加害者がいるなら、それはそれでちょっと可愛いので愛せそうな気もしますが、残念ながらそんな人はいません。いつだって、正義は自分なのですから。
無自覚とはいえ、それは確実にどこかの誰かに受けた「影響」による流行り病でしょう。
だって中傷の型って、ある程度決まっているじゃないですか。

もしも、知人・他人問わず、感情任せに怒り狂う人を見て「みっともないな」と思う機会が一度でもあれば、自然とそれを反面教師にして「ああはなりたくないな」と思うはずです。
私を例にすると「軽率に~」「控えめに言って~」「~してもろて」といった流行り切ってはいない妙な言葉たちがそれに該当します。
この手の言葉が醸し出す独特な匂いがものすごく苦手な私は、当然これらを口にも文字にもしません。
でも、世の中には好き好んでこれらを愛用する人が大量に存在します。
それはきっと、初めてその言葉に触れたときに「私も使いたい」と思ったからでしょう。

言葉の使い方は常に自由であるべきですから、いちいちそれに対して「それ、やめてよ」とは言いません。ましてや相手が他人であれば余計にです。
でも、思っています。ずっと思っています。でも、言わない。何故なら、ドアが邪魔するから。
もしも私の体内に解体屋が侵入して、全ドアを破壊されたとしたらもう大惨事です。
「世界線世界線って、それ別に”世界”でも良いんじゃない!?」「ほぼほぼって何?ほぼより上なの?下なの!?」みたいなことを寝る間も惜しんで延々ツイートし続ける未来が見えます。
まぁこうしてブログに書いちゃってる時点で矛盾している気もしますが、今回は説明するために用いた例ですからどうかお許しくだされ。
実際のところ、ここ10年は一枚目のドアすら目にしていませんから。

 

こうして文章にしてみると、改めて苛立ちやすい人は大変だなと思います。
ヒステリックな上司の下に二度ほどついた経験がありますが、幼児かってくらいに不機嫌さをロングラン上映している様を見ていると「ずっとあんなんで疲れないのかなぁ」と、心配とも呆れともいえない変な気持ちになったものです。

これは半径100mの世界でも、地球を包囲するネットワールドにおいてもそうですが、短気な人には”ある厄介な共通点”が存在します。
それは、「怒りを露わにしたところで、まったくスッキリしないこと」。
ブチギレたらハァ~スッキリ。急にご機嫌でハロー!ってな人もなかにはいますが、その機嫌すらも長くは続かず、次なる怒りを手に入れて再び吠えまくるのが大体のオチです。

朝も不機嫌、昼も不機嫌、夜も不機嫌。
まだ言うかってくらいに文句を連ねても連ねても全く熱が冷めない究極の魔法瓶ボディ。
相手に非を認めさせたくて仕方ない。
「価値観や相性の違い」で片付けず、こちらの考えに従わせなければ気が済まない。
そのためなら一切攻撃の手を緩めない。
正論なんてどうでもいい。とりあえず揚げ足を取れ。矛盾点を突け。
例えそれが自分の憶測と決めつけによるものであったとしてもだ。

で、結果、大人な相手が平謝りしてきたとしましょう。
でもね、この手の人というのは、それでも相手を許さずにその後も文句を言い続けるんですよ。
自らの怒りを水と肥料にして悪意をどんどん成長させ、自分にしか見えない虚像のモンスターと戦い続ける。それもまた一種の趣味なのでしょう。

短気な人の「文句」は、喫煙者にとっての「煙草」にも似ています。
「煙草を吸うとイライラが収まる」という喫煙者に対して、「でも、イライラする原因も煙草なんだよね?」と思う私ですから、それと同様に「君のイライラが収まらないのは、相手が謝らないからじゃなくて、そうやって攻撃を続けているせいだよね?」となるわけです。
自論Ⅱではありますが、これはそんなに大きく外れちゃいないんじゃないかなぁ。
あなたはどう思いますか?
まぁ興味はないので、意見は聞かないですけど(これぞ最低)。

 

というわけで、今日は「短気は損気っていうけど、実際に損をしているのはそれに付き合わされている周りの人たちの方だよね」というお話にお付き合いいただきました。

世も世だし、人類にはあんまりプンプンしないでいただきたいものだわ。
『おやすみプンプン』でも読んで、今夜はぐっすりお眠りよ。
まぁ私はあれで眠れなくなっちゃったんだけどね。