わたくしごと

フはヒじゃない

4月13日のOPENから24日連続でご注文をいただいていた「るりんストアー」ですが、ここ2日でパッとオーダーが止み、第一波の収束を感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

5月8日現在で、206件の出荷を行いましたが、発送・破損トラブルが1件もないことに感動しながら、「ちゃんとしたダンボールを作って良かったぁ」という安堵が20%、お届け先の入力ミスを一度もされなかったお客様への敬意が40%、表札なき集合ポストも多い中、正しく投函をしてくださった郵便局員の方々への感謝が40%な日々を過ごしております。
やはり物を作って売るというのはロマンがあるなぁと思いつつ、これを生業としているアーティスト・クリエイターの方々に対して「とんでもない人らだわ」と、尊敬の念が嵩を増すばかり。

「LIPHLICH TIMES MUSEUM」をご購入のみなさまには、まだまだ辺鄙な攻撃とプチ報酬が控えておりますので、そちらもどうぞお楽しみに。
でもって、クリアファイルも含め、追加生産は一切致しませんので予めご容赦のほどを~といってもまだまだある~。

 

さて、今日は一体なにを駄弁るかというと、ズバリ?「ふと思うこと」についてです。
といっても、「最近ふと、こういうことを思うんだよね」という話ではなく、「みんなはふと何かを思うことってあんまりないの?」という問い掛け。
ネットの世界ではそう感じてしまうことが頻繁にあるので、実際のところどうなのかねご婦人といったところでございます。

というのも私、熱心な「ふと教」の信者なんです。
本当に暇さえあればふと思ってる。考えるでなく、思う。それだけ。
何の結論も出ず、出たところで何かの糧になるわけでもない。
微々たる時間のさざなみにあっけなくさらわれちゃうような弱っちい「ふと」の連続は、自分でも止めることのできない依存症の様なもの。
でも、この「ふと」を数千数万と繰り返してきたからこそ、話題に事欠かずにいられている様な気もするので、珍しくこの性格(習慣?)に関しては短所だと思っていなかったりします。

ふと、ってなんでしょう。
私にとってのそれは、改めてそれについて考えさせられる場に出くわしたときや、デジャブ的に「前にもこういうことあったよな」と回想しちゃうとき、といったようなある種の「必然」とは悲しいくらいに無縁なものです。
そう、我の「ふと」は何にも起因しない。例えばそうだな。

 

月のカレンダーをめくるときにふと思う。
「あの動物園で見たカピバラ、お湯に浸かってるとき幸せそうな顔してたよなぁ」

ほぼ満車状態にあるショッピングモールの駐車場で空きスペースを求めて回遊しているときにふと思う。
「永谷園のお茶漬けのパッケージって、黄色と緑と何色だったっけ」

商品を箱詰めしているときにふと思う。
「昔、読者の方から”kaniさんは学生時代勉強が出来る子でしたか?”って質問されたな」

スタバで紙製ストローにキャラメルがまとわりついている様を見てふと思う。
「何を指示しているのか分からない謎の動きをする交通整備員って困るよねぇ」

 

みたいに。
混じりっ気のない「ふと」に思考を足踏みさせられることが多いこと多いこと。
もしかしたら、深層意識の奥の奥でそれを連想させるものが視界に映ったのかもしれませんが、顕在意識のなかじゃあ何ひとつ該当するアイテムなど見当たらず。
退屈な話を自身に持ち掛けて、己にすら何の返事ももらえずに黙っているような、超非生産的な時間の到来です。

昔は、「ふと思ったんだけど」という枕を省き、それについてツイートすることもあったのですが、ここ数年で意識的にそれをやめました。
なぜなら、この「なんでもない一言」は、文字にして明かした途端に第三者から「無関係な何か」と勝手に結び付けられてしまう恐れがあるからです。
いわゆるナンセンス。本来無意味であることを意味のあるものへと紐づけて、どこかしらに着地させないと気が済まない人がそこかしこに存在します。
言葉は悪いですが、こじつけってやつですね。
それがちょっと面倒だなと思うことがまぁまぁ多かったのです。

ふと、他人からの何気ない言葉に傷ついて塞ぎ込んでしまった昔の友人のことを思い出してこぼれた140字。

ふと、母を亡くし、目の前で泣き崩れた幼馴染みに掛ける言葉が見つからず、ただただ遠くを見つめた日のことを思い出してこぼした140字。

前者をネットの海に投げれば、「なにか酷いこと言われたんだろうな」。
後者を流せば、「今日亡くなったあの人(著名人)のことを思って書いたんだろうな」。
そうやって意図せず結び付けられてしまう言葉たちは、結果として誰かに感動を与えるシロモノにも成り得ますが、私としてはまったくもって本意じゃないので、「ハッキリしないことはもうやめよう」と決めたわけです。

だってさ、百歩譲って良い方向に転べばまだマシだけど、逆の場合は最悪でしょ。
主語を欠いた愚痴を吐けば、「私のことを言っているのかな」とスーパー無意味な不安に苛まれる人もいるでしょうし、その一方でスーパー無意味な逆上の槍をぶん投げてくる人もいる。
「顔も声も名前も知らない君を攻撃するためだけに、わざわざSNSなんか使うわけないでしょ」というのはあくまでも私個人の常識であって、そうは受け取らない人も当たり前にいます。
であれば、初めから何も言わなければいいだけ。めちゃ単純な思考です。
だいたいが「画面を隔てた関係なんだから、誰のこともそんな近くに感じちゃいないよ」って私の考え自体、少々時代遅れなのかもしれませんね。

ふと思ったあれやそれから出てきた言葉が何度も何度もなにかしらに結び付けられる。
「君に言ってるわけじゃない」「そういうつもりじゃなかった」がまったくもって通用しない現代です。
そして、そういう流れを経験してきたことによって、私がこれまた「ふと」思ってしまうのが本日のお題!

 

世の中の人にとっては、「ふと思うこと」が珍しい行為なのかもしれない。

 

これよ。
というのも、ふと教幹部の私は知人の鬱屈したツイートを目にしたからといって、「今日なにかあったんだな」とは思わないんです。
単純に「そういうことを思うときもあるよねぇ」でfin.
「指名されたうえでのSOSにしか応答しない」というマイルールも、「私だったらそうされたくないから」という考えによるもの。
「求めている人にだけ」という言葉は平等性に欠けて不親切だという方もいらっしゃるかもしれませんが、私はむしろ「平等な施し」にこそ不気味さを感じてしまうのです。
それを不要だと思っている人にまで何かを押し付けるのはただの迷惑行為ですから。

CD屋時代に制作した数百の配布物を手渡しではなく、自由に持ち出せる設置方式にしたのも、LINE公式アカウントを登録してくださった方、更にそのなかでも簡単な条件をクリアしてくださった方にしかレターカードをお送りしないのも全てこの理由からです。
Amazonでも楽天でもminneでもBASEでも、個人経営のショップから買い物をした際、商品と同梱で直筆の手紙が送られてくることってありますよね。
あれもショップ側からすれば親切心というか、「お客様への感謝の気持ちを伝えたい」という想いから生まれたサービスなのでしょうが、私は要らないんです。

「直筆の手紙は捨てにくいから同梱しないでほしい」というお客さんの声と、「そうおっしゃるお客様もいらっしゃいますが、遠慮なく捨ててください。あくまでもあれは私たちの気持ちなので!」と主張する店主のメッセージとが一時期Twitter上で話題になっていましたが、私は問答無用でお客側につきます。
それどころか、「遠慮なく捨ててください」というお店側の言葉にちょっとした恐怖を覚えたくらいです。
お店を肯定する第三者からの「人の善意を何だと思っているんだ」という援護射撃は、本来そのサービスを求めている人しか撃ち抜けないもの。
それよりなにより、客として店主の想いや費やした時間を尊重するからこそ、それを良しとする側からのエゴって、めちゃしんどいんですよ。
もちろん「邪魔だから入れないでほしい」というシンプルな否定派もいるでしょうけどね。
「直筆メッセージを受け取る・受け取らない」の選択さえできれば、すぐに解決できる問題なのになぁ。こだわりが強いのかな。

ヴィジュアル系の世界でいうと、ライヴハウスの入場時にスタッフさんから大量のフライヤーを手渡されることを迷惑に思うバンギャルズも多いはず。
「今は欲しくない。あとで欲しい分だけもらいたい」という思いが届いてからか、最近ではあまりそういう現場も見掛けなくなりましたけどね。
エンタメに関する情報に飢えている人なんてほぼ存在しない今の時代、それがPRのためであるなら尚更、他の方法を模索しなければなりません。
受け手ならまだしも、提供側が考えないで生きていける時代は完全終了していますから。

 

というわけで、今日は「ふと思うこと、あるのないの?」というお話にお付き合いいただきました。
特に未練があるわけじゃないけど、昔好きだった人とか、お付き合いしていた旧恋人とか、あんなに仲良しだったのに名前が思い出せない学生時代のバイト先の社員なんかをふと思い浮かべて、「あの人、今頃なにしてるのかしらねぇ」なんて物思いにふけること、あなたにはありますか?
もし今日が退屈な一日になりそうなら、押し入れで永き冬眠に入っている古携帯を充電して当時のやりとりなんかを覗いてみるといいかもしれません。結構諸刃だけどね!
それではひきつづき良い日曜を~。