わたくしごと

共感の順序

人様の意見に共感することが極めて少ない人生を送ってきたせいで、あちらこちらから入ってくる賛同の声を耳にしては、「本当にそう思っているのかな?」とボヤく癖がついてしまっています。

今回お話するテーマは「共感」です。
読み進めていくなかで嫌な思いをされる方もいるかもしれませんが、「こんな面倒な奴もいるんだなぁ小せぇなぁ」程度に聞き流していただけるとこれ幸い牧場でございます。

テレビ・ネットでのニュースに捧げられるコメンテーターの意見、Twitterでの尖った主張、それらを囲う共感の言葉たち。
私はそれらにときどき違和感を覚えながらも、「自分が賛同できないだけで、本心からそう思っている人が多くいる」という当たり前のことを唱えることで、半ば無理矢理に自身を納得させてきました。

 

なんだか回りくどいので、自身の経験を例にしてお話しましょう。

今や見る影もありませんが、私は10年程前に当時大流行していたアメーバブログで毎日長文の日記を更新していました。
元々紙の日記は小学生の頃からつけていたのですが、一人暮らしを始めてからというもの、仕事が忙しい&家事をマメにやっていたこともあり、深夜の仕事帰りに日記帳を開いてペンを走らせることがとても億劫になっていました。

人間とは不思議なもので、長い間続けてきた「毎日していたこと」が習慣化すると、いつしか「それをやらなければ気持ち悪い」状態に陥ります。
ただ、更なる不思議として、もはや「呪い」と呼んでも差し支えないほどの「絶対的な習慣」も何かの拍子で一度止めてしまうと、一気にどうでもよくなってしまうのです。
誰に頼まれていたわけでもないのに「解放された!」と、そんな気分になるあの奇妙な脱獄感はなんともいえないものです。

あくまでも推測に過ぎず、間違っていたら大変失礼ですが、Dollyの亜樹さん(私が敬愛する最高のドラマー)が10年以上もの間、ブログ『亜樹日和』を毎日更新しつづけているのも「楽しいから」というより「やらないと気持ち悪い」境地にまで達してしまっているせいじゃないかなぁと思っていたりします。
継続しないと自分のなかで何かを失ってしまう様な感覚をおぼえながら、それでも尚歩み続けるというのはどんなことに関しても大変難しく、だからこそ価値があるのです。

唐突にイケてるバンドマンの写真を貼り付けながら、先へと進みます。

「面倒なり〜めんどうなり〜」と1Kでこぼしながらも、呪いにどっぷり侵された私は来る日も来る日も紙の日記を書き続けていたのですが、ある日「ブログ」というものを知ることになります。

多くのヴィジュアル系アーティストがこぞって移行していった「アメーバブログ」の存在は、当時の私たちにとってスーパー画期的であり、私個人のことでいうと、自分の手でいちいち文字を書かなければならない煩わしさとサヨナラできることに大変衝撃を受けたものです。

それからというもの、身の回りで起きたこと、職場の変わった従業員のことなどを写真付きで更新しつづけ、やがて私は自分の好きなバンドの作品について「レビュー」というにはあまりに稚拙な長文を書くようになります。
それがたまたま時代に則していたのか、そういったことをしている人が少なかったからか、その手の文章をきっかけに読者様が徐々に増えていきました。
更に、アーティストに記事を取り上げていただいたり、勧められるがままに書いた小説まがいなものをゴマブックス主催のコンクールに出し、まぐれ当たりで賞を受賞してしまったことなども手伝って、その数はどんどん増幅し、最終的には一日に2~3万アクセスを獲得するまでになっていたのです。

自分でも「なにがなんだか分からないなぁ」と思いながら、「でも、たくさんの人に読んでもらえるのは嬉しいことだ」という気持ちももちろんあったので、その後も数年に渡って、ブログを更新しつづけました。
しかし、なにをきっかけにするわけでもなく、あるときパタッと更新をやめ、今に至ります。

私がこの十数年に渡って抱え続けている「共感の違和」。
それは、主に音楽やアーティストに関することを書いていたときに何万回と言われ続けてきた一つの言葉に起因するものでした。

 

「私の言いたかったことを全部言ってくれている」

 

これです。

自身が書いた文章に対し、本来喜ぶべきであろうその感想を耳にするたび、私は「ほんとに?」と首を傾げていました。
「そう言われてみて、今"そういう気になった"ってわけじゃなくて?」と。
私は、その「共感」における「順序」にやたらと懐疑的になってしまうのです。

これは何もブログに限った話ではなく、例えば自分の好きなアーティストや芸能人が何かを発信したときや、新たな一面をファンに見せた際に人々が口を揃えて言う「この人のそういうところが好き!」というセリフも同じです。「ほんとに?」って思っちゃう。
そういう一面を本当に良いと思っているかどうかではなく、あくまでも「順序」の話です。
「そういうところが好き」という言葉は、「その人に"そういうところ"があることを元々知っていた」という前提があって初めて成り立つものだと私は考えているからです。

そして、再び疑っちゃう。

「その人の"そういうところ"って言うけど、今"そういうところ"を見たことで、"そういうところ"に気付いただけじゃない?」と。紛らわしくて失礼。

誰かの発言に「分かる!それな!」と便乗する行為にも、「それ、今"わかる"ってことに気付いただけじゃないの?」なんて具合に。
もっとシンプルに言うと、「君、そこまで考えてなかったでしょ」といった感じです。

そんな風にいちいち勘繰ってしまうのは、「あまり人様に共感できない」という私の大きな欠陥のせいであることも自覚しています。
現に「どうして君の言うことに私は何一つ共感できないのに、君は私の言うことに丸ごと共感してくれるんだ!」と、ある種の劣等感が押し寄せてくることも過去に何度かありました。
「人に出来ることが自分に出来ない」というのは、なかなかに虚しいものですからね。
とはいっても、ここ5年くらいはそういった類の卑屈さもなく、「あらあら共感してくださるのね。でも……ほんとに?」と思うくらいで、モヤモヤが残ることもなくなりました。
もし、あのモヤモヤが進行形で今も存在しているのなら、こうして文章にしようとは思わなかったはずですからね。

私は語彙も乏しく、特に秀でた才もないくせに「言葉のニュアンス」にだけは妙にこだわってしまうのですが、それは文字の場に限ったことで、実生活において「ちょっとちょっと~それは違うんじゃないの~??」なんて、人に苦言を呈する様なことはもちろんありません。
今回嘆いているのも十数年黙っていられた程度の違和ですから、それに憤っているわけでもないですし、そう言われることがある度に嫌な思いをするなんてことはないのですが、ただ単純にすごーく疑問には思います。「本当に?それ、順序合ってる?」って。

私は過去も今も、こういった「自分の短所」について話すことがあまり苦ではなく、「そういう部分の方が見ている人も退屈しないんじゃないかなぁ」と思っているくらいなので、今回ここを読んでくださった方に「めんどくさ!!」と言われるのもまぁ仕方ないと思っています。
ただ、私には「相手がやっている分には何とも思わないけど、自分がそれをするのは嫌だ」という行為が数多く存在し、そのうちのひとつがこの「共感の順序に対する違和」だっただけのことです。

自分の気持ちを代弁させた気になるのは、単なる怠慢だとも思っていますが、あくまでも「自分がそれをやったら」の話で、決してそれをしている人への批判ではありませんので、その点はご理解いただけると嬉しいです。

気持ちや考えを言葉にして伝えることは難しいですが、それをどうにかして伝えようと試行錯誤思考を巡らせつづければ、100%とまではいかなくとも自分の思ったことを想いのままに伝えられる様になります。
「その程度でそれが出来ているとでもお思い?」と言われても、「そうです。これが私の精一杯です」とお返しする他ありません。
凡人の感性なんて、せいぜいそんなもんです。

あぁいつか、私も清々しい程の「共感」を誰かにぶつけてみたい。
何千何万と聴いてきた歌のなかで、私が順序を偽らずに「こ…これは私が思っていたあの気持ち…」と共感(驚愕)した歌は、LIPHLICHの『嫌いじゃないが好きではない』と、たむらぱんの『くそったれ』だけなので、そういう奇特な歌にもこれからたくさん出逢えたらいいなぁと思います。

というわけで、今日も長々失礼。
なんとなくでも、私の言いたいことが伝わっていたら嬉しいなぁと願いつつ、おやすみの支度を致します。
引き続き良い夜をお過ごしください。