わたくしごと

すみっコ映画に見た「無表情の情」

3月めまして。その後、皆様の愛猫はいかがお過ごしでしょうか。
今年は世にも珍しい閏年。「閏」の字がちょっとドラえもんに似ている上、2月29日はポチャッコの誕生日ということもあり、「これは閏日にブログを更新すべきだろう」と息巻いた結果、このザマです。
これに限らず、「あのとき(それもたった数時間前)に湧いたやる気」を維持することって本当に難しいですよね。どうやら私のハートは魔法瓶じゃないみたいだわ。まぁ「初速の男」ほどではないけどね(インスタ参照)。

さて、最近の私はというと、Spotifyを導入してからというもの、聴く音楽の幅が一気に広がりました。
そんな中でも特に女性アーティストの曲を聴く機会が格段に増え、最近ではまねきケチャ以外のアイドルも好む様に。
知れば知るほど、世の中には素敵な音楽が溢れており、「やはり著名な作詞・作曲者はなるべくしてその地位を築いているんだなぁ」などと、至極当たり前のことを痛感する日々です。
しかし、そんな感動と引き換えに、聴く曲によっては変にネガティブな感情を抱く様になっている自分に気付きました。
心の声に忠実に、一字一句余すことなく書き記せば、その思いは下記の通りです。

「上手だけど、うるさいな」

予めお伝えしておきますが、今回は珍しくちょっとだけ批判的なお話しをします。
といっても、私の気持ちとしては「批判」というより、好みによる偏った「意見」に過ぎません。
膨大なアーティストの楽曲の内のほんの一部にしか抱かない感情ではありますが、こいつがチラつくようになってからというもの、私の中のデシベルセンサーがやけに敏感になり若干参っているので、不治ならせめて皆様にカウンセリングしていただきたいと思った次第でございます。にんにん。

「良い曲なら良い曲で、全ての要素を好きになりたい」
そう願えど願えど、どうしたって「ううう…うるさい!」と途中で飛ばしてしまう歌。
昨夜もその類の作品に出逢い、「好きなのになぁ…」と呟きながらスキップボタンを押しました。
そして、私はひとり池袋駅のホームで考えるのです。
「声量のあるなし、声の癖のあるなし、録音レベルの高低に起因しない、この”うるささ”の正体って何なのだろう」と。

川越行きの埼京線がホームに到着するまでの僅か8分で、その正解はいともたやすく弾き出されました。
私を苦しめる”うるささ”の正体は、どうやら「歌声の感情」だったみたいです。

煩わしさが言語化された途端、「そういえば、遠い昔にも同じ様なことを思った日があったなぁ」と、もはや(私のブログの)お約束でもある「あの頃のコレ」と再会を果たしました。
ここから物凄ーーーく長い話に入るので、一旦クノールコーンポタージュを楽しんでから、つづけます。

クルトンは後のせにしたい

遡ること十数年前。
これは、若かりし日の私が心酔しまくっていたヴォーカリストにまつわるお話しです。
当時、彼が核となってシーンを賑わせていたバンドは各々のソロワーク開始に伴い、一度活動を止めることになりました。
今ほど情報の回りが速くはない時代でしたが、バンドの状態が良くないことはそれとなくファン全体に伝わっており、実際に彼がソロになってからリリースされた作品の歌詞にも、その葛藤ややるせなさがこれでもかと滲んでいました。

多くのファンと同様、「ソロ活動」というものにバンド崩壊の恐れを覚えましたが、バンド内でも多くの楽曲を手掛けていた彼でしたし、当時の私ときたらそれはそれは盲信的なファンだったので、発表される作品は単純に「好き!好き!」の連続。
ただ、あるときを境にその好意が淀み始めていたのも確かで、「好き」にかまけてそいつを見て見ぬ振りしていた私でしたが、そのまやかしも虚しく、彼のソロ初となるPVを観たとき、曖昧だった不信感の正体をうっかり突き止めてしまったのです。

「葛藤とやるせなさ」を切々と綴った彼が映像上でひとり、歌う。
立ち姿こそ然程バンド時代と変わることなく、私の好きな彼だったのですが、問題は演奏シーンの隙間隙間に差し込まれる「イメージカット」にありました。
その数秒における彼の表情の作り方にどうしようもない違和感を覚えたのです。

オブラートに包まず言えば、その表情は「不格好な作り物」でした。
それまで、カリスマというカリスマ性をいかんなく発揮してきた彼にこの手のマイナスな想いを抱いたことがなかった私は、それ相応に困惑するわけです。
バンドでの彼はというと、激情的な詩を口にしているとは思えないほど淡々とした歌唱をするのが特徴で、胸中が読めない無表情故の危うさが他にはない魅力を放っていました。
そんな彼がソロになり、泣きそうな歌詞を泣きそうな声で泣きそうな表情を浮かべながら歌う。その分かりやすい演技にちょっぴり失望してしまったのです。
思えば、あれが私の経験した初めての「好きなアーティストの好きではない表現」を観た瞬間でした。

とはいえ、熱狂時代真っ只中の私。
楽曲はもちろん好みですし、なんなら彼のことも変わらず大好きだったので、ソロツアーにも数本参加しました。
その一本目。公演を楽しみにする気持ちだけで飽和してほしかった心へ悪戯に混ざろうとする「不安」のシミがチラチラ目についたものの、「まさかライヴではね…」と有村竜太朗もびっくりな希望的観測を胸に開演時間を待つ私。
しかし、その希望は叶わず、彼はその手の悲しみを綴った歌を歌う際、終始泣きそうな表情をつくり、不自然なほどに声を震わせたのです(PVの7割増し)。

どう贔屓目に見ても「泣きそうな自分」を演じようとして演じきれていない彼の姿を見つめる二時間。
涙を流しているわけでもなく、感情を込めるところだけ不自然に力んで声を震わせ、直後にはいつもの淡々とした歌声が響く。
そのなんともいえない不完全燃焼っぷりにガッカリし、彼のパフォーマンスに夢中に成り切れていない自分自身にもまた同じだけガッカリしたものです。
アンコール待ちの際、隣にいた4人組のお姉様がたの一人が放った「なんかあの泣き虫みたいな歌い方不気味じゃない?」の声に「あぁそう思うのは自分だけじゃないんだ」と、妙に安堵してしまったり。
あの頃の彼は「らしくない」とか「格好悪い」ではなく、ただただ「変」だったのです。

後日、彼はインタビューで「ヴォーカリストは、ステージ上で日頃表現者を演じているのだから、人を泣かせる演技が出来るのは当たり前」と発言しており、それを崇めたてまつるライターのヨイショが更に不信感を増幅させ、「もう私はダメかもしれぬ」としょんぼりしたことを今でもよく覚えています。
もちろん、彼のあの表現に感動するファンの方も多かったことでしょう。
むしろ、私は自分が確実にそっち側の人間だろうと思っていたくらいだったので、余計にショックが大きかったのです。

それまで特別意識していなかった「彼の歌が好きな理由」。
それが「類稀なる詩才と、淡々とした無機質で余剰のないストーリーテリングっぷり」であることに気付いた私は、その後に行われたツアーには参加せず、バンドの曲を聴き倒す生活に戻っていました。
楽曲に生きる主人公に憑依して歌うのではなく、その世界に翻弄される主人公を遥か頭上で見下ろしている様な、いわば「歌い手」というよりも「語り部」に近い彼の歌こそ、私の求めているものだったのです。

先述のアイドルの話に戻りますが、私が当時のことを思い出したとき、「アイドル研究家」といっても過言ではない友人(男)にLINEでこんなメッセージを送っていました。

「ごめん。勧めてくれた曲だけど、あの”感情を一生懸命込めてます!”っていう過剰な感じがうるさくて苦手だった」

すると、彼は30秒も待たずにこう返信をくれました。

「ダメでしたか。でも分かります。アイドルは、ある程度歌唱力が上がってくると、次は感情表現に重きを置き出す子が多い印象があります。プロデューサーかボイトレの先生かの指導なんですかね」

その返答を目にしたとき、妙に納得してしまいました。
というのも、私が「うるさいな」と思ってしまった子たちは揃って歌が上手な子ばかりで、結成から然程経っていない頃の作品を聴くと、どの子も癖のない真っ直ぐな歌唱をしていたのです。

自覚はありませんでしたが、私は歌にリアルさを求めているのかもしれません。
大きな悲しみが押し寄せてきたとき、あんな風に声を荒げたり、ガタガタ震えながら何かを口にする人間を見たことがありませんし、私自身抱えきれないくらいの問題を背負ったときや訃報を受けたとき、妙に悟りすまして沈黙してしまう人間なので共感が難しいのでしょう。
「日常と芸術における表現は別モノっしょ」と頭では分かっていても、実際は「そんなの偽物じゃん!あああああ普通に歌ってほしいいいいい」と、人知れずド級の我儘を叫ぶ自分自身がマァ面倒でなりません。

ソロ時代の彼、及び私が「うるさい」と感じてしまったアイドルの荒々しい感情表現は、それを好む方からすれば、やんごとなき「エモさ」に他ならないでしょう。
しかし、私個人に限った話をすると、その「エモさ」は邪魔でしかなかったりします。
怒りのメッセージを爆発させるのはまだ絵になっても、悲しみを激化させることにはどうにも気持ちがのらないのです。

てなことを延々愚痴りながら、なんとなしに思い返してみたところ、私がこれまでに痛く感動を覚えた楽曲たちは、どこか意識が浮ついた様な歌唱によって運ばれる物語ばかりでした。

PIERROT『SEPIA』
シド『紫陽花』
LIPHLICH『VESSEL』
Chanty『天翔る』
Develop One’s Faculties『monochro』
そして、その最たるものが、cali≠gariの『冷たい雨』です。

これらは「飽きない」というより、私にとって何度聴いても心が「慣れない」そんな歌。
再生している瞬間の自身の状況や心の揺れ動きによって、縦横無尽に色を変える魔法の様な6曲です。
取り乱さず、起伏もなく、ただそこにヒタと漂う「なにも求めず、与えようともしない表現」。
埃ひとつ舞っていない、その「平静」の上に自分を横たわらせてみたとき、改めて今の自分が何に動揺し、心を動かされているのかを知ることが出来ます。
対峙する曲と自分。お互いの波長が激しく波打っている状態は、聞き手のいない会話みたいなもので、伝えたい側の感情を受け止めることが困難ですから。
「こういう感情を受け取って!」という表現は私にとって雑塗り一色で押し付けがましく、「ここに感情を置いておくから、好きなときに迎えにきて」という歌は多色で魅力的。
自分から迎えにいかなければ、そこで歌人ごと消えてしまいそうな楽曲が私は好きみたいです。

さて!だ。
そんな長すぎるイントロを越えて、ついにタイトルにもある「すみっコぐらし」の映画へと話を繋げていきます。

イオンシネマ市川妙田でんででん

ご覧の通り、私は舞台挨拶付きの上映会を見るべく、片道2時間車を走らせるくらいにはすみっコが好きで、映画も二度ではありますがじっくりと楽しんでまいりました。
公開当初、「この映画はヤバイ!子供向きじゃない!大人も号泣!」という触れ込みに始まり、いつしか無才な目立ちたがり屋がありもしない大喜利力を見せつけるべく、やれ「すみっこはトラウマ鬱映画」だ「傷が深くて3日も食事が喉を通らない」だと大袈裟な評論を掲げる様には閉口した方も多いことでしょう。
って、もしかしたら本当に心からそう思って書いた人も2%くらいはいたのかもしれないので、断言は良くありませんね。眉唾には変わりないけど。

そうこう難癖をつける私の感想はというと、「すみっコらしい素朴で切ない良い話だった」くらいなものです。
先程の表現論と同じく「”無表情の情”が慣れない感動をくれる」そんな作品でした。
というのも、劇中において、彼らは基本的に無表情(通常運転)で、「笑顔」と「焦り」くらいしかこちらにとって分かりやすい表情を見せてくれないのです。
だからこそ、観る側が勝手に感情をアテレコしながら、個々に楽しみ、悲しめる作品に仕上がったのだと思います。

「この子は今、ものすごく苦しんでいるに違いない」
「この子は身を裂く程の孤独を感じているんだ」
「この子は結果的に不幸せになった」

などなど。
言葉悪く言えば、「こちらの都合」で彼らの気持ちを自分の納得いく形へと押し込んでいくような。
現に彼らは「苦しい」「幸せ」「助けてほしい」等々、それらの感情をひとつとして言葉にしてはいませんでした。
人が人として生きていくうちになんとなく共通項として抱える「幸せと不幸せ」のかたちを基準として、スクリーンで動き回るすみっコたちを「ぬりえ」の様に捉え、彼らの感情を好きに色付けていく。少なくとも私はそんな感覚を覚えたのです。

ただ、そんな無表情ズのなかで、唯一私たちが無意識に望んでいるであろう「あるべき表情」を見せていたのが「ぺんぎん」で、彼が見せた疑いようのない悲しみの表情は、来場者にとってある種の救いであったようにも思えました。
もし撮影日にぺんぎんが風邪をこじらせて、あの映画に登場していなかったとしたら、本当に「何を伝えたい映画だったのかわからない」という状況になっていたと思いますのでね。
特に全編通して「ざっそう」の無情さったら半端じゃないから。
すみっコのなかで私が一番好きなキャラなんだけど、あの作品をきっかけにちょっと冷めちゃったくらいだもの。ラジカセの電源をちゃんと切るシーンがなかったら、おばけに寝返っていたところだったわ(観た人にだけ伝わればいい)。

というわけで、長々と失礼致しました。
みなさまももし宜しければこの機会に「はてはて、私を感動させてきた名曲たちは、どんな風に歌われていたっけ?」と確認してみてはいかがでしょう。
なにか新しい「好みのかたち」が見えてくるかもしれません。
それでは、残りの夜も良い音楽と共にお過ごしください。おやすみなさい。