わたくしごと

輝きの返納

8月22日。
その日約束があった私は、車で待ち合わせ場所に向かっていました。
19時も過ぎているというのに夏の空は明るく、雲もなく、更に赤信号にまったくつかまらないという神の計らいもあって、それはそれは気分良くドライブを楽しんでいました。

とはいえ、ここは信号の国。ジャパン。
片道40分の道のりで一度も赤信号に出くわさないなんてことはそうそうなく、惜しくも目的地まであと数百メートルのところで赤丸ちゃんと遭遇してしまいました。

右折レーンで停車していた私は、車内で流れていたamber grisの『an Fade』にゆったりと頭を揺らしながら、ぼんやりと信号を見つめます。
すると、ある違和感に気付くのです。

 

「あれ?前の車、どんどん下がってきてない?」

 

「徐行」にも遠く及ばない超低速で、徐々にこちらへ迫ってくる車。
ぐるりと周囲を見渡しても、そこでバックをする理由は見当たらず、更なる違和としてバックライトが点灯していないことにも気付きました。

「前の車が下がってるんじゃなくて、自分の車が進んでるのか?」

そう思い、左右の車を確認するも、窓の外にこれっぽっちの動きもなく、足元を見てもバッチリブレーキを踏んでいたので、「あぁもう完全に前の車がバックしてんじゃん」と察しに察した私はハンドルから手を離し、じっと前を見つめていました。

そんな境遇にいながら、クラクションを鳴らさなかった理由。
それは、目の前の車がボロボロのコンパクトカーだったことに起因します。
リアガラスから薄っすらと見える運転手の影は小さく、白髪。

 

「高齢者だろう」

 

そう確信した私は、クラクションを鳴らすことによって相手が焦り、ブレーキと間違えてアクセルを踏まれてしまうことを危惧しました。
その結果、「そうなるくらいなら今の速度でぶつけられた方がマシだ」と判断したのです。

2m、1mと徐々に近づいてくる前方のカーを慈しみの眼差しで見つめる私は静観のエンジェルと化し、脳内で延々とこだまする『魂のルフラン』の歌い出しをBGMに、怖いほど穏やかな気持ちで「さぁいらっしゃい」と心の腕を大きく広げます。
その包容力に甘えるかの様、よちよちと近付いてくるオンボロカー。
赤ちゃんみたいで、もはや可愛く見えるわ。
必然たるハグの瞬間まで、

50cm

 

30cm

 

10cm

 

5cm

 

 

ゴンッ

 

 

その鈍い衝撃を合図に、ここで初めて軽くクラクションを鳴らし、手信号で「左に寄せて」とジェスチャーを。
車は私の指示に素直に従い、すぐ左側にあったかっぱ寿司の駐車場へ入っていきました。

被害車(造語)を降り、加害車へと向かって歩く私でしたが、ここでまたしても新種の違和と出逢います。
運転手がなかなか降りてこないのです。

おそるおそる運転席を覗き込むと、そこにはドアを開けるのにも時間が掛かるほど腕力の衰えたおじいさんの姿がありました。
こちらからドアを開けると、彼はゆーーーーーっくりと車から降り、まだドアを抑えている私に向かって、信じられない一言を放つのです。

 

「よそ見しちゃったの~~~??」

 

どんなサプライズよりも心臓に悪いそのキラーワードに驚きつつも、「違いますよ。お父さんがバックしてきたんですよ」と冷静に諭す私。
すると彼は、「え?俺が?バックなんてしてないけどなぁ~しかしすごい音したなぁ~」と悪びれるどころか、まるで戦友かの様な振る舞いで私に共感を煽るのでした。

確かにバックライトはついていなかったので、彼が意図してバックしたかどうかは分かりませんが、数メートルにわたって自分の車が後ろに下がりつづけていたことに気付かなかったのですから、それはそれで大問題なわけです。

一から丁寧に状況を説明するも、「ずっとこの車に乗ってるけど、そんなこと一度もなかったんだけどな~」と繰り返すばかりで全く解決に向かわず、それどころか「でもまぁ大きな物損はないし大丈夫かぁ~」なんてことまで抜かす始末。
そのぼんやりとした口調が若干マイメロっぽくて可愛いと思ってしまった自分が悔しかったこと悔しかったこと。

彼の車は無傷でしたが、私のナンバープレートはぐんにゃりしていたので、「いやいや、これは修理代請求するくらいの立派な事故ですよ」と呆れ気味に返しましたが、彼は最後までとぼけた調子でひゅるひゅるとこちらの言葉をかわしていくのでした。

「警察は呼びませんが、ちょっとお父さんが心配なので、近くにご家族がいらっしゃるなら呼んでもらってもいいですか?」と言うと、「本当にすぐそこが娘夫婦の家だから、娘を呼ぶね」と、ここにきて初めて会話が成立し、うっかり感動。

彼が電話をしてからものの5分。
年の頃なら40前後の男女がこちらに向かって全速力で駆け寄ってきました。
息絶え絶えな二人に事情を話そうとすると、それを遮る様に娘さんが頭を下げ、「申し訳ございませんでした!お怪我はございませんか!?」と大変慌てたご様子。隣の旦那さんも一緒になって頭を下げてくれました。

これが買ったばかりの新車であればちょっとくらいは「ウラァァアアア!!」となっていたのかもしれませんが、もう15年も連れ添ってきた車ですし、幸いナンバープレートが曲がるくらいの事故で済んだので、私からは「いえいえ。むしろお父さんの方が心配なので連絡してもらったんですよ」くらいの言葉しか出てきませんでした。

「もし、お父さんの言う通りバックをしていないのなら、すぐにでも車を点検してもらってください。ただ、個人的には考えづらいと思うので、運転は控えてもらった方がいいかもしれませんね」と話すと、娘さんは「いえ。父の不注意だと思います。運転はさせない様に言います!」と、キリッとした目で私にそう告げました。

私としては特にそれ以上話すこともないので、「じゃあお父さん気を付けてくださいね」とお別れの挨拶をすると、彼は右手をヒョイッとあげ、満面の笑みを浮かべながら「お兄さんもね!」と。
「私に!なにを!!気を付けろと!!!」という気持ちこそ若干芽生えたものの、待ち合わせに遅れてしまいそうだったので、「は~い」と間抜けな返事をし、愛しきマイカーのドアを開けました。

 

が!

 

ここで今日一番の違和が炸裂!
ふと目をやると、なんと、あのオンボロカーの運転席におじいさんの姿があったのです。

「さすがにそれはないですぞ!」と焦った私は急いで車を降り、オンボロドアを軽くノックノック!
少しだけ開いた窓の隙間に顔を近付け、「ちょっとちょっと!お父さんが運転して帰るんですか?」と聞くと、後部座席に並んだ娘夫婦が「ごめんなさい。私たち運転出来ないんです…」と。

話を聞くと、その場所から見えるくらいの距離に彼らの家があるため、そこまではきちんと二人がお父さんを誘導して、家でゆっくり「今後運転はしてくれるな」という話をするとのこと。
電話を掛けてから到着までのスピードから察するに家が超近所であることは紛れもない事実でしょう。
しかし、彼の所作を見るにとても安心できる様な状態でないことは明らかだったので、「他に運転できる方は近くにいらっしゃらないんですか?」と尋ねると、旦那さんが「一応私は免許持ってるんですけどペーパーなんですよね…」としょんぼり。
それでもこのまま運転を続けてもらうよりはマシだろうと、彼を説得。
運転席に旦那が座ったのを確認した後、私は急いで待ち合わせ場所へと向かうのでした。
当然、その後の彼らがどうなったかは知る由もありません。

ここに至るまでの私の一連の判断は、常識的に考えると「大間違い」なのでしょう。
愛車のベリーサも納得しなかったのか、その日は冷房の効きがいつもより悪かった気がします。
ただ、警察を呼ぶとか、保険会社に連絡するといった一般的な対応に踏み込めなかったのには、理由がありました。

私には、75歳になる父がいます。
脳梗塞で倒れたことをきっかけに60年近く続けてきた左官業を辞めた父はそれ以来車に乗ることがほとんどなくなり、長きに渡って相棒であった軽トラックは、いつまでも駐車場に停められたままでした。

「駐車場代も馬鹿にならないし、事故を起こしたら取り返しがつかなくなるから、車は手放したらどうか」と母に提案するも、母も母でそれを父には言いづらいといった顔をしていました。

親子だからか、私にはなんとなく母がそう思う理由も分かっていました。
仕事が出来なくなった父に、またひとつ「出来なくなったこと」を増やしてしまうこと。そうする悲しみに心が耐えられなかったせいでしょう。
なにを隠そう、私が父に直接「車はもう手放そうよ」と言えずにいた理由もそれだったのです。
母に掛け合ってみるたび、「まったく卑怯な息子だ」と自責の念も芽生えて、苦しい思いをしていたのも事実でした。

しかし、テレビでは連日の様に高齢者の運転による事故が取り沙汰され、メディアでは「年寄りは運転するな!」と罵声にも程近い鋭利な言葉が飛び交います。
その様を目にするたび、「これはもう人ごとにすべきではない」と、兄二人もそう思っていた様なので、私たちは意を決して父から車を奪うことにしました。

「この選択は正しいに違いない」と確かに思うのですが、未だ心のどこかでその決断を悔やんでいたりします。
下手すれば、父が父自身に思う気持ちと同等に、私自身も「できないことが増えた父」を見るのが辛かったのです。

あのおじいさんが乗っていたオンボロカーの助手席には、かつて父が誇らしげにトラックの荷台に積んでいた大工道具と似たものが置かれていました。
今初めて会った彼、それも事故の被害にまであったというのに、たったそれだけのことで必要以上の情を覚えてしまった私の弱さはなかなかに醜いものです。
ただ、娘さんのあの真剣な眼差しは信じるに十分値するものだったので、今はただただ良い選択をしてくれる様、願う他ありません。

彼と衝突したあの道は、私が毎週の様に通る道です。
今後、因縁のあの道で例のオンボロカーを見掛けることがあったら、今度こそ容赦しないんだからネ☆と、必死におどけてみせたところで、そろそろお開きにしたいと思います。

70代の親御さんをお持ちの方へ。
ときには実家に帰って、ご両親の所作や思考力を観察してあげてください。
本人には分からないことがたくさんあるかと思いますので、それに気付いた際は心を弱鬼にしてきちんとアドバイスしてあげることをお勧め致します。

あれまーなんだか寂しい気持ちになっちゃったわ。
エビ中の『シンガロン・シンガソン』でも聴いて、ポップに明日を迎える準備でもしよう。
ではでは、引き続き良い夜をお過ごしください。夏が終わるよー。