わたくしごと

乾パン堅パン田村ぱん

「相手がそれをやる分には何の不快感も感じないけど、自分がそれをやることには凄まじい嫌悪を覚える」

これは、かねてから発信の場において私が口癖の様に唱え続けている主張です。
しかし、これとは真逆の理論もまた私の中に宿っていたりします。
言ってみれば「人にはそうしてあげたいけど、同じことをされたいとは思わない」という感情。
いや、厳密に言えば「されたいとは思わない」なんかじゃぬるうござんす。
本音で勝負!何もしないでほしい!ほっといてほしい!扱いなんて邪険でケッコーケッコー!!

…この性格を直せるのであれば、50万円でもお支払いしたい。そう真剣に思う。
何故なら、その厄介な思考は私自身だけでなく、相手の心をも滅ぼしてしまいかねないから。
「見返りを求めない」と言えば、なんだかとてもジェントルメンでイカしているけれど、実際はそうじゃない。ただ卑屈なだけ。
そう、今日もまた私は「私の短所」について語ろうとしているのです。

人から感謝の気持ちを受け取ることが超苦手な私。
そんな私が施す「他者への善意」は、やはりどこか不純だったりします。
というのも、私にとって「他人を思い遣る行為」は、親切心と同等の大きさを誇る「その境遇への不快感」から脱する為の術でもあるのです。
「君が辛そうにしているから助けたい」という気持ちの裏側にはいつだって「そこで悲しまれていると、私が気にしすぎて困っちゃうんだよ」という邪念が存在します。
だからこそ、迷わずに手を差し伸べる。なんでって、不快だからだよ!
そうとは知らず、人は私を「相手の気持ちが分かる優しい人」だと言う。
その一言によって、「そんなんじゃないのに…」と胸を痛める。
「一体、これをあと何度繰り返さなければならないのだろう」と、人様からの評価と行動の動機とのギャップが苦しくて、吐きそうになるのでございます。

現に、沸き立つ「正義感」に燃えて誰かを救った経験なんて、これまでの人生で数えるほどしかありません。それも相手は家族と恋人くらいなものです。
対彼らに限らず、「そのときの感謝なんてすぐに忘れて欲しい」と願うのはきっと我儘なのでしょう。
しかし、その手の功績(?)は、私にとっちゃ邪魔で邪魔で仕方なく、「恩を忘れないのはいつだって私一人でいいんだ!」と夢の中で何度声を荒げたことか。
決して強要をしているわけではないのに「相手が自分に感謝をしている」と感じ始めた瞬間から、私はある種の不安に貶められるのです。
つくづく、どうしようもない人間だと思います。

「もしかしたら、私はあなたに良いことをしてしまうかもしれない。でも、それは私が勝手にしたことだから、どうか感謝なんてしないでほしい」

思いをそのまま形にすると、こんなにも捻じれた主張の出来上がり。
この現象に「分かる!」と膝を打つ方がいるのなら、「お互い、良いことのし合いは控えましょうね」と小声で契りを交わしたいものです。タリーズのテラス席で(シャレ男)。

 

恐縮に殺される。

感謝に刺される。

この心の不具合は、大袈裟ではなく死活問題だったりします。
「お前ほんとに好きだな」と笑われそうな気がしつつも、そういう言っている間にネクストバッターズサークルでぶんぶんバットを振っている超小柄な彼女のことを紹介しましょう。
私の大好きな女性アーティスト。そう!たむらぱんであーる。
彼女の『くそったれ』という世にも俗っぽいタイトルのバラードにこんな詩があるのです。

 

自分のことの様に誰かに愛されることは
空の端を探すことみたいだけど
自分のことの様に誰かを愛することは
ありがとうさよならいつもするぐらいのこと

自分のことの様に誰かに優しくされることは
遠い国の昔話みたいだけど
自分のことの様に誰かに優しくすることは
目覚めて眠り明日が来るぐらいのこと

 

先日お話したLIPHLICHの『嫌いじゃないが好きではない』に続く、不共感症を患う私が「自分のことみたいだ…」とド級の共感を覚えてしまう詩。
あまりの命中っぷりに、初めて聴いたときはまぁびっくりしたものです。
「こういう気持ちを抱く人も他にいたんだ」という安心感は、私にとって最も不必要な「アイデンティティ」とやらをカキーンと見事に打ち砕いてくれました。
それは、「個性なんて要らない。人と同じが良い」そう願い続ける我が心にとても深く沁みる音楽体験だったのです。

自分のことの様に誰かを思いやることはとても容易いけれど、人から同じ様な優しさを受け取ることはそう容易じゃない。
そして、それを受け取ったときに覚える畏れと感謝の質量は、もはや「物語の中にしか存在しないものであってほしい」と願ってしまうほど巨大なのです。あああ潰されてしまう!

長渕のおじさんが巻舌で歌いそうな『くそったれ』という荒くれタイトルに反し、そこで歌われる言葉は疎ましい程に澄み渡っていて、それがかえって痛いこと痛いこと。
とはいえ、「タイトルが曲に不釣り合いだな」と思うのは、最初の再生時に限ったお話です。
一曲をじっくりと嗜んだあとには「なるほど。もうこれ以上のタイトルはないな」と思わされてしまうのだから憎いったらないぱん。

私が部屋の壁に貼っている「いつか絶対サインを貰ってやるアーティスト一覧表」のなかで、かなりの上部に君臨する「たむらぱん」というアーティストの詩は、これに限らず女々しいmeの胸に突き刺さるものばかりです。
「仕事や生活に不安を抱えているアラサー以上の女子には尚のこと刺さるだろうなぁ…」と、若干恐怖すら覚えてしまうその鋭利で綺麗で愉快で突飛な唄たちが、普段ヴィジュアル系を好んで聴いている女性陣に与える影響というものを計測してみたいところだわ。
おそらく、配信サイト等でも聴けるかと思いますので、『love and pain』というアルバム名で検索をしてみてください。

って、なんだいなんだい。
必殺の短所合戦をしていたのに、ついついたむらぱん頬張り選手権になってしまった。
ついでなので、表題曲の『love and pain』のPVも貼っておきましょう。
この曲は、地球上に存在する何億もの唄のなかで、最も「私の生きるペース」に近いリズムの作品です。
考えるリズム。歩くリズム。ぼんやり天井を見上げながら寝転がっているときの鼓動のペース。
それら全てとの親和性があまりに高い御唄よ。あなたはどうかしら。

というわけで、本日は「感謝は私の心を削る」という最低なお話でした。
「借りを作りたくない」「私なんかにそんなことしてくれなくていい」という濁った潜在意識は、ここから数歩下がった位置にある「平成の溝」にポイッと捨てて、令和はもっと前向きに人に親切を働ける生物でありたいな。
みなさまもどうか素直で。人の喜ぶ姿はハッピーを極めるよ。おやすみなさい。

いつだかに作った画像