わたくしごと

上手くいか泣くNight

ねぇ、聞いてもいい?
あなたはさ、どんな悲しみに弱いの?
分からない。なら、読みながら考えて~。

 

世の中にはいろんな種類の「悲しみ」が存在します。が、その殺傷能力は千差万別。
誰かにとっての病的なそれが、私にとってはなんてことないってケースも多々ございます。
それならば、一体どの類のsadがあなたをnessしちゃうのか。考えてみましょうぞ。
悪趣味ルーレットスタートー。

 

例えば、戦争映画。失恋モノ。死別のラブストーリー。いじめ・差別の描写。候補をあげればキリがない。というか、全部が全部そうなのかもしれない。
ただ、なかでも特に、他人には伝えようがないくらいの握力でその喉元を締め付けやがる表現が、あなたにもきっとあると思うのです。

これは何度も繰り返し言ってきたことですが、私はとにっかく人間にも芸術にも「わざとらしさ」を感じてしまうと一気に冷めてしまう人間で、例えば作品上で分かりやす過ぎるいじめの描写(最近多いよね)なんかを観せられると、「あれまぁステレオタイプとはこのことかぁ」ってな具合にすぐ愛想を尽かしてしまいます。
「観た人にこう思わせたい」という作り手の魂胆や狙いが見え見えなのは即駄作入り。
それを感じた瞬間に電源をオフにしてしまうくらいの嫌悪感を覚えてしまうのです。

じゃあお前にはないのかと。
その手の悲しみがよと。
ならば問うなやと。
そう言いたい気持ちは分かりますが、残念ながら私にもあるんです。明確に。「こういうsadにめちゃ弱い」っていう例がたったひとつだけ。
それはズバリ、こう。

 

大切な人を喜ばせようと思ったのに、うまくいかなかった人を見たとき。

 

悲しいとき~(悲しいとき~)。
もうね、死んだ方がマシなんじゃないかってくらいに胸が軋んでならない。
ふくらはぎを猛烈につったときと並ぶくらいのあの殺してくれ感ね。「地獄」以外で何と形容しよう。

「可哀想」というのは、多少なりとも相手を自分より低く・弱く見積もっているときに生まれる感情だと思うのですが、この類の悲しみに居合わせたとき、私はその認識をひっくり返されてしまうくらいの「大きさ」に打ちのめされちゃうんです。
「もう負けです!勘弁してください!お願いだからすぐに成功して!!わたしのために!!!」って。

で、こういった悲しみって私の経験上、女性にしか見せられたことがないんですよ。
それが母性からなるものなのか、後生残りつづける少女性からなるものなのかは分かりませんが、特有の「プレゼント精神」みたいなものが女性にはあるんじゃないかと昔から思っているんです。
私みたいな愚か者は、人から何かを与えられるのがとても苦手なので、もらった喜び以上に「そんなことしてくれなくていいよ…」っていう申し訳なさに苛まれて、結果的にプレゼンターの期待を大幅に下回るリアクションしかできないんですね。
だからこそ、余計にやめてほしいと思うわけですが、そんな「我関しないデ」派の私ですらズタズタにするのが、先程お伝えした系統の悲しみなのです。

もちろんそう思うのには理由があります。
実際にそういう体験があって、初めて骨身に染みるトラウマですからね。

パッと思い出してしまうのは、恋人がご飯を作ってくれたときのこと。
彼女は一人暮らしをきっかけに、それまでしてこなかった料理を少しずつ勉強して、徐々にその腕をあげていったのですが、ある日私が部屋にお邪魔した際、とても嬉しそうにご馳走をふるまってくれようとしたことがありました。
そう、私の超苦手な「サプライズ」ってやつです(最低)。

で、もうこの流れからして完全にネタバレだと思うので、早々に結末を言っちゃうと、大失敗したんですよ。料理が。
「なかなか出てこないなー」と不審に思いながら、キッチンの側を振り向いてみたら、そこには不機嫌かつ悲しそうな顔をして作りかけの料理をバンバン捨てていく彼女がいて、その瞬間こそ「え?なにしてんの?」と驚いたわけですが、先述のとおり、私はこの手の悲しみにスーパー敏感。
すぐに状況を察して、再び無言でテレビを観続けたんですね。
こんなことを頭のなかで呟きながら。

 

「こういうこと、前にもあったな…」

 

知らんがなトークを開幕しますが、その子に限らず、私がお付き合いする女性はみんな心が穏やかで優しい子ばかりでした。
よって、こういった現場を目撃したときのショック(ギャップ)がまぁ大きいことよ。
とはいえ、人間誰しも「常に温厚で健やかに」なんていかないのは当然のことなんですけどね。

最初にこの手の経験をしたのが二十代前半で、その後、中盤と後半にも一度ずつありました。
お付き合いしていた女性は違うのですが、思い返してみると、どのときにも共通していえるのは、現場がキッチンであったこと。
ここまで続くとただの偶然ではないと、つい勘ぐってしまうのがさいたま人。
それを確証づけるかのように、別々の人生を歩んできた彼女たちが同じ場面で、同じことを言っていたのです。

 

「もっと上手にできると思ってた」

 

初めてこれを経験したときはびっくりしすぎて、「なんで泣いてるの?美味しそうじゃん、食べようよ」と声を掛けたのですが、「もういい。今日はやめる」と言って聞かず、結局少し離れたご飯屋さんへ出掛けることにしました。
道中の車内でも普段通り、他愛もない話をずっとしていたのですが、どこか冷たい空気が流れていて、「あぁこれはもう個人の感情の問題だから、私がなにをどうしたってダメだな。むしろ慰められる方がきついだろう」と、なんとなくやり過ごした夜のことを今でも鮮明に覚えています。

私(と彼女)の場合はそれが料理だったというだけで、他の営みで同類の悲しみを抱いたことのある方もいるでしょう。
例えば、仕事で得意分野の業務を任されたときや、「十分勉強したから未経験でもやっていけるはず」と意気込んで入った未経験業種の会社なんかでも同じようなことが起きているんじゃないかなと想像するのです。
私はもうそういうのを見るのが本当に嫌。なんなら想像している今ですら辛い。
「可哀想」という言葉では包み切れないくらいの、なんというかドドドドドドスの効いた悲しみを当事者であるその人以上に感じているんじゃないかと錯覚しちゃうくらいに!つらい!!

そんなことをカタカタと打っている今、とあるトラウマ映像のことを思い出してしまいました。
それは、在りし日のバラエティ番組「リンカーン」での一コマ。
番組内に「ミッドナイトリンカーンラジオ」というコーナーがあったのですが、ご存知ですかね。

内容としては、出演者ひとりひとりに一台ずつ車が用意されていて、車内に流れるラジオ番組を聴きながら、各々が深夜の道を徘徊するというシンプルな企画。
パーソナリティーはDonDokoDonのぐっさんこと山口智充さんで、その素敵な声を武器に次々と感動エピソードを読み上げていくのですが、そこで紹介された「野球のチケット」にまつわる親子の話を聴いたとき、私は瀕死状態になったのです。
そして、放送から軽く10年は経過したであろう今も尚、その深い傷が完治しないままでいます。
ほんの5分程度のエピソードだったんですけどね。私にはちょっと鋭利過ぎました。

そのお話に出てくるお母さんもですし、かつての彼女たちもそうですが、これから始まる時間のことをすっっっごく楽しみにしている姿を一度見てしまっているからこそ、余計にそれが上手くいかなかったときの辛さが際立つんですよ。
だって、サプライズを仕掛ける直前の女性って、どうしようもないくらいに楽しそうじゃないですか。
私は割と勘が良い方ではあるので、早い段階で「あ、なんかあるな」と気付いてしまう。
そして、それが徐々に確信に変わっていったときには決まって、「たのむ~成功してくれ~」と懇願するんです。仕掛けられるのは自分なのに。失敗されたらメンタル心中待ったなしだから。

 

はぁ思い出さなきゃよかったなぁ…

 

過去の苦痛談を持ち込んで、「こういうのに弱いのよ…」という、これまた新たなマイ弱点をみなさんに披露してみたわけですが、どうですかね。
記事を開いたときは、「苦手なタイプの悲しみねぇ。あるとは思うけど、具体的にどういうものかって聞かれると難しいかもなぁ」と思われていた方のなかに一人くらいは、「なんかわかったかも…私の場合はこういうのだ…」という正解を見つけた方がいることを願うばかりです。
だって、私ひとりが苦しいのはイヤだからね(ウルトラシェア)。

そしてそして、「喜んでもらいたい相手に想像していたようなことができなかった」という悲しみに覚えがあるって方!
仮にいたとしても、そのエピソードを深夜ラジオのコーナーなんかに投稿しないでくださいね。
間接的に私が大病を患う恐れがあるので。
FM電波 is DEAD。まじたのむ。

というわけで、今日は「そういうのやめておくれよ」なお話にお付き合いいただきました。
人生はいつだって、ちょっと悲しい。
ゴールデンウィークなんて夏の幻。
つくづく人間なんてやってらんないわ~。