言葉のこと

ほめは百薬

「家の近所にあるから」

「ホットのホワイトモカ(チョコレートソース追加)が最高に美味しいから」

ただそれだけの理由で、ここ一年はスタバで作業をすることが多かったのですが、「たまにはちょっと違うところにも行ってみたいワ」と思い立ち、コメダにお邪魔しました。

たっぷりサイズなるものよ

朝早くから活動することなどまずないので、「モーニング」というサービスがマァ新鮮。しかしコメダのカフェオレは私にゃちょい苦い。しかしパンはフカフカで美味しい。
でもって、コメダ最大のチャームポイントを知ってしまったね私は。なにって、おしぼりの熱さ。まるで溶岩。
「首にのせたい VS それははしたない」のバトルでギリ後者が勝ち、なんとか大人をキープすることができました。

余談もそこそこに、本日あなたにお付き合いいただきたい本題へと。
テーマはズバリ、コレ。

 

「褒めるってすげえ」

 

これはもう常日頃から感じていること。
私生活における家族・恋人・友人、職場における同僚・お客さん、などなど、場所・関係性・愛猫の有無を問わず、人が人に施す「褒め」という魔術は凄まじい効力を誇ります。

私はここ2・3年、自分一人である程度のところまで完結できるお仕事を主として生計を立ててきたのですが、半年程前から頑なに断り続けてきた取材のご依頼(無論する側)も受ける様になり、だいたい週2ペースで「はじめまして」を発声しながら、「怪しい者ではございません」と、うさぎ絵の名刺を配る日々を送っています。

あやしいものしか持たなそう

取材対象は実にさまざま。
新たなサービスを企てる人、画期的なアプリを開発した人、舞台上で世の女子女子を魅了している人、かわいいお店で美味しいものを提供している人、見た目から成功者たるオーラをブン回している人。
あげればキリがありませんが、基本的にはなにかを作っている人、つまりは「アーティスト・クリエイター」と呼ばれる方々とのご縁に恵まれています。
「音楽関係のお仕事は原稿料が安過ぎてあまり受けていない」という小言は夢のなかでしか言っていないので、この本音は今のところ誰にもバレていないはずです。生きていかねばならんのでね。

 

私には、取材の席におけるルーティーンめいた行動があります。
それは、「はじめまして」の根も乾かぬ内に、クライアントに対して該当のサービス・作品に触れた感想を伝えること。一切の助走なしに。それはそれは唐突に。まだギリ椅子に座り切れていないAutomaticのタイミングで。

さて、ここで問題です。
10秒前まで顔も名前も知らなかった人間の口から、己への評価を息継ぎなしでドワァァアアアッと告げられた際、クライアントであらせられる紳士淑女はどの様な反応を見せるでしょう。
三択でGO!

 

クライアント(TYPE-A)
「え!あ!ハッ!ああありがとうございます!!」と慌てふためく

クライアント(TYPE-B)
「ほーほーそうですか。うん、それは例えばどういうところが?」と前傾姿勢で深入りする

クライアント(通常盤C)
「どこかでご一緒しましたっけ…?」と訝しげな顔で探りを入れるのに夢中になって手元のコップを落とし、床に水をぶちまける

 

正解を発表しましょう。全部です。
まぁ3番に関しては一人しかいなかったのでほぼノーカンですけどね(足元にグレムリンがいなくてよかった)。

 

「何故そうするのか」
私がハピネス運送屋だったならきっと、「せっかくなら気持ち良く仕事をしてもらいたいじゃない」なんてことを言うのでしょうが、残念ながら違います。
理由は、「そういう人間だから」。ただそれだけです。
言わば、ただの癖ですね。

とはいえ、こういう性格になったのにも何かしらの理由があるはず。
「それっぽい体験あったかなぁ…」と、じゃがりこのさつまいも味を頬張りながら過去を回遊してみたところ、「あの出来事は、その内のひとつだろうな」と思える出来事と再会しました。
さしてドラマチックなエピソードでもなく、例によって長くなりますが、どうせお暇でしょうから、最後までお付き合いください。

 

もう10年以上前の話になります。
私は当時、美術大学に通う女性とお付き合いしていました。
彼女の通っていた学校は、美大事情になどまるで詳しくない私にすら知られている名門校で、あちらこちらで頻繁に大規模な展覧会を開催しており、私も彼女の作品が展示される際には毎度足を運んでいました。

立派としか言いようのない校舎、その壁にたっぷりな余白を挟んで展示される絵画の数々。
正直な話、私の感性は絵の良し悪しどころか、それが自分の好みかどうかすら判断できないほどヨボヨボなので、キリッと額装された絵の前にただ立ち止まっては、「うーん…よくわからない…」と呟くばかり。
記録的な横移動の速さから、周囲の人からもきっと、「こいつ何かの付き合いだな」と察されていたことでしょう。

しかし、そんな愚か者にも微笑みかけてくれる奇特な美術神も存在した様で。

それは、5度目に訪問した展覧会でのことでした。
そこで出逢った一枚の油絵に私は釘付けになったのです。

 

「こんなん彫刻じゃん」

 

油彩絵具が波の様に隆起した堂々たる抽象画を前にぼーっと立ち尽くす。
その絵が展示されていたのはおそらく教室で、広さもなく、来客も私ひとり。
メインの展示場に飾られていた作品たちと違い、額に添えられたプレートには制作者の学科名と名前しか書かれていなかったので、きっと受賞作ではないのでしょう。

部屋の隅っこに置かれた椅子には、おそらく生徒であろう女の子ふたりが腰掛けていました。
「あんたが出て行けばお喋りできるのになぁ〜」なんて思われてたら申し訳ないなと思い、サササッと場を離れようとしたそのとき、私の行く手を阻むように設置されたオシャレな机の存在に気付きました。
机の上には一冊の大学ノート、そしてやけに細身な銀色のボールペン。
裏返しになったそのノートをなんとなく手に取り、くるっと表紙側へかえすと、そこには「ご感想をお願いします」の文字が。
花園タイム待ちのすみっこぐらしガールズたちのことも一瞬頭をよぎりましたが、「せっかくだから」と、思い思いにペンを走らせることにしました。

 

「この絵を見てこう思ったよ」

「こういうことを考えて描いたものかなって思ったよ」

「作品名には多分こんな意味が込められているんじゃないかなって思ったよ」

「なんにしても絵に興味のない人間を立ち止まらせるあんたはすごいよ」

 

そんなしょうもない感想が6行目に差し掛かったあたりから、イヤっちゅうくらいのボリュームで頭上にこだまし始めた「なんか書いてくれてる……」というすみっこぐらしたちの心の声。
とても幻聴とは思えぬそやつを掻き消すべく、後半は筆圧高めで応戦。
彼女たちの声にときどき混じる「学費が…高いのヨ…」といううめき声は、おそらく親御さんによるものだろう。将来親孝行しなさいよ。

そんなこんなで肩にのった女子大生2人分の生霊を振り切り、ようやく曰く付きの部屋から脱出することに成功しました。

この日の最後には、メインディッシュをお迎えに。
「今年の品評会で賞をとった!」と大喜びしていた彼女の作品を見に行き、この日15度目の「うーんやはりよくわからん…」のセリフでフィニッシュ。
すれ違いざま、絵画の鑑賞を趣味とされているのであろう老夫婦の上品さにクラクラしながら学校を後にするのでした。

その夜、彼女とお気に入りの洋食屋さんへ。
期間限定メニューと定番メニューとで選択をぐらつかせている彼女に「勝負に出なよ」とけしかけるも、自身はいつものグラタンを早々に注文。
料理がやってくるまでにたっぷりな時間があるため、いつものように他愛もない話をしていると、お店の壁に飾られていた海外のポストカードを見た彼女が何かを思い出した様な顔をして、私にこう言いました。

 

「ねぇ、今日どこかのノートに感想書いた?」

 

「私の字ってそんなに特徴的なのか…」とうなだれながらも正直に白状したところ、「書いてもらった子、それ読んで大泣きしてたよ」とのサプライズ談。
聞くと、どうやらあの絵の制作者は彼女と同じ油絵学科の生徒で、入学初日から仲良くしている「例の子」だとのこと。
夫婦・恋人関係において、「どんな顔・声をしているかは知らぬが、自然と名前が出てくるくらいには中身を知っている第三者」をもった経験があなたにもあることでしょう。
このときの私もまさにそれで、「あぁ〜よく話に出てくる○○って子か!」とやけにテンションが上がったものです。
嬉々として友達の喜んだ様子を伝えてくる彼女を見て、「こやつもこやつで良い子よのぉ」と再認識させられた、なんとも平凡で、でもどこか特別な夜でした。

 

話を戻します。

 

「どうして感想を当人に伝えるのか」
先述の通り、私の場合はただの癖。
この感想を受け取った人にどんな感情が生まれようが何も生まれまいが知る由もない。
これを伝えることで自分が相手に好かれるか、嫌われるか、まるで興味がない。
でも、本心から出た(自分にとっての)プラスの言葉で相手に喜んでもらえるなら、それに越したことはない。
その程度のラフさで好きにああだこうだと口走ってきただけのことです。ほんとうにただそれだけ。
でも、そこで真正面から伝えた言葉が、あの日ノートに書き連ねた言葉が、彼らのなかで何度も蘇るものである自信がほんの少しだけあるのです。

 

あれから10年が経過した今、私は5秒前まで欠片も知らなかった作品に触れては喋り~触れては伝え~な日々を送っています。
そして、ここ数年でそれらを伝えたアーティスト・クリエイターのリアクションを見たとき、その表情・所作・発言から感じて感じてならぬのです。自己への評価に対する病的なまでの「飢餓」を。
なんなら、「アーティスト」「クリエイター」という煌びやかな6文字は、慢性的にして重度な「飢餓」という病を英訳したものなのではないかと思うくらいに。

その飢えは、食べることによって解消されるものではなく、他者からの言葉でしか満たし様のない超厄介な性質です。
お金を出せば好きなものは食べられますが、どれだけ手を尽くしても他人の感情は思い通りに動かせませんからね。
更に酷なのは、「仮に動かせたとしても、その実感を得られないケースの方が遥かに多い」ということ。
「だから可哀想」「だから立派」ではなく、「だから難しい」。
これは、ご自身の手で作品をのこした経験をお持ちの方であれば、相当な確率で共感していただけることかと思います。
第三者の言葉は、良くも悪くも麻薬なのです。

 

「ほめてもらえたら、きっとうれしいだろう」

そんなこと、誰にだって容易に想像できる。
ただ、実際にそれを伝えようとする人は、体感で100人に一人も存在しません。
いや、100人でも甘いな。500人くらいにしておこう。

「私なんかが言わなくても、きっとたくさんの感想を貰っているんだろう」

「私より伝えるのが上手な人が同じ様な気持ちを代弁してくれただろう」

「楽しみにしてます。今日のライヴ楽しかったです。なんてありきたりな感想、もらってもしょうがないだろう」

 

全部が全部スーーーーーーーパーーーーーーーーNO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

そのくらいにあの方々は、マジで飢えてるのよ。これはマジマジのマジ。飢え飢えの飢え。
だって、いないから。伝える人なんて。1000人に一人もね(分母増強)。
それが例え誰かに言われたことと同じ言葉であっても、飾り気のないたった一言であっても効果は絶大。そりゃ当たり前よ。いないんだから。

どんな仕事をしている人でも、「誰かに言われて嬉しかったこと」のひとつやふたつあるでしょう。
一瞬耳をかすめたその言葉を何度も反芻してしまうこと、あったでしょう。
じゃあそれがみっつよっつ、いつつむっつ、じゅうななじゅうはちになったら、序盤のイチ・ニで得た喜びを忘れちゃうと思います?忘れないでしょう。それは、どこの誰だって同じです。私みたいな卑屈人じゃない限りは。

どういうことだ。何年前のもらいもんだ。まだまだ味がする。
なんなら言った本人が覚えてないって確率の方が遥かに高い。なんと健気なことか。

最近では痺れを切らして、「感想を聞かせてほしい」「もっと伝えて」と自ら口にするアーティストも増えてきましたが、そうでない方も気持ちはだいたい同じ。
特に30歳以上の人らは、めくるめく偶像崇拝時代を生きてきたものですから、「自分からクレクレ言うのは格好悪いな」と、喉元まで出掛かっている言葉をグッッグッッと飲み込み続けているかもしれません。ずっと続けば、いつか壊れるでしょう。
悪い言葉ほどやけにこだまする厭な世の中ですから。

ほっとんど届かない感想のなかでキラリ光る「新曲最高でした」の一声。
ほっとんど届かない感想のなかでキラリ輝く「この曲が聴けて嬉しかった」の一声。
ほっとんど届かない感想のなかでキラリ瞬く「楽しみにしてます」の一声。
これによってある日のセットリストが、今後制作される楽曲の質感が、作り手の未来が変わる。
ありましょうありましょう。なんせ一度聞いたら一生ついて回りますからね。

こんな風に好き勝手自論を撒き散らしていたら、ひとつ気付いたことがありました。
私がお仕事で接する人に伝える「感想」は、「感謝の想い」を省略したものなのかもと。だから伝えずにはいられないのか、とも。

よく聞きますでしょ。
「うちの旦那は私が家事をするのが当たり前だと思っていて、感謝の気持ちがまるでない」みたいな超真っ当な愚痴を。
そりゃあもうごもっとも。怒らずにいられる方が不思議だ。
「感謝されたいの?」なんて言われようもんなら、「そういうことじゃない!」と除夜の鐘の数だけ頬を引っ叩きたくもなるでしょう。

「トイレットペーパー切れそうだよ、じゃねぇよ気付いたなら買ってこい!」

「明日ゴミの日じゃない?じゃねぇよ知ってるなら出るときに持っていけ!」

おーおーおーおーそれに近い!

 

「語彙力なくて上手く言えないから伝えない」

 

もっともそうだが、ああもったいない。
あなたがもし、「してもらって当然顔」の旦那・彼氏から「感謝はしてるけど、語彙力なくて上手く言えないから伝えないんだよ」と言われて、「なぁんだそういうことかぁ〜なら先に言ってよねぇ〜〜」とニッコリできる人なら話は別ですがね。そんな人いるか?あなたはそうか?私は違うね。こう言うね。

 

「たった一言!アリガトウでいいんだヨッッッ!!」

 

まぁこれはあくまでも「感想は感謝かも」という私個人の考えから派生した寸劇なので、ほとんどの方には当てはまらないのかもしれません。
それに他のファンの目が怖くて感想を呟けない人もいれば、「正解を言わないと相手に失礼だ」「間違えたところを見られるのが恥ずかしい」と変に構えて黙り込む人もいるでしょう。
それに、こうしてあーじゃこうじゃアーニャフォージャー言ってる私も気持ちはめちゃ分かるんですよ。面倒ですよね。伝えるのって。別に義務じゃないし。
むしろ好きでいることに義務感を覚えるようになると、応援が労働に変身して苦しくなる一方ですしね。
現に私もドトールで丁寧な接客をしてもらったときに「お姉さんの接客最高ですね。まるでルノアール千葉東口駅前店の店員さんみたいだ!」なんて言わないですから。

簡単に伝えられるからこそ、伝えない。
選択肢が多すぎるからこそ、どれも選ばない。
今はそういう時代でしょう。悲しいけど、そういうもんでしょう。

もしかしたら、これを読んでいる今、「そういうもんなのか。じゃあ今度はリプかDMを送ってみようかな」とか「今後は拡散にも協力してみようかな」なんてことを思われた方もいらっしゃるかもしれません。
が!!その気持ちは続かないんですよ、残念ながら。
思い立った今から次のライヴ・リリースまでの間に消滅しているのがオチ。
人間の習性ってそういうもんです。いよいよしょうがない。
はてはて、私はこの6594字で誰に何を伝えたかったのだろう。結局分からずじまいだワ。

てなわけで、今日は「(別に義務でもなんでもないけど、嬉しい気持ちが膨らんだときにだけでも伝えてみたらそれは大好きな人の延命剤にも成り得るよ、なんせ)褒め言葉ってすげぇ」というお話でした。
お粗末さまでした。良い夜を。