言葉のこと

もやもやのかいぞうど

「どんなことに気を付けながら執筆していますか?」

先日、ライターから編集者へと華麗な転身をきめた女性からそう尋ねられました。
これまでは、「どうしてこういう言い回しにしようと思ったの?」「なんでここは口語にしたの?」「読点は何故ここに?」「なしてここを平仮名にしたの?」といった、妙にマニアックな質問を投げかけてこられる方だったので、唐突な大雑把クエスチョンに一瞬戸惑いはしたものの、答えは5秒。

 

「スラスラ読めるものにしよう、と思っている様な気がします」

 

わざわざ改行の必要あるか?ってくらいの凡回答。
しかも曖昧ですよね。私もそう思います。でも、そうなんだから仕方ない。
現に文章を作っている最中は、「こうしたいからこうしてああして〜」なんてことを一秒も考えていないのですから。

とりあえず書き始めてみる。
自然と頭がグルグル回り出す。
浮かんできた言葉を広げて広げて、最後に構成を組んでいくという流れが鉄板。
「それはさすがにないわ〜」と呆れられることも多いのですが、インタビューの際も同じだったりします。
「これを聞こうかな」というなんとなくの質問はいくつか用意しますが、終わってみたらそのなかのひとつも聞いていないなんてことも、これまでにあり過ぎるほどありました。

私の場合、「これ以上書くことないなー」と悩むケースは稀で、むしろ「これ以上削りたくない」とジタバタすることの方が圧倒的に多い。
だからこそ、最後の工程である構成・編集に異常な時間を要してしまうというね。
あ、納期遅れは一度もないですぜ。こんな動画も作ったくらいだからね。飛ばないし、飛ばないし。

「時間が掛かるって分かってるなら、あらかじめ構成を組んだ方が楽じゃん」と言われてしまいそうですが、そりゃもうごもっともです。ぐうの音も出ねえ。
でも、それだと面白くないんですよね。作っている最中も、出来上がるものも。
生産性と効率を優先するあまり、愉快な違和をも取りこぼしてしまう気がして。
ハプニングって面白いですし、実際多くの人が心のどこかで望んでいるものだと思うんですよね。
「この人、こんな話もするんだな」って驚き。あんなに良いものはないでしょう。

元から存じ上げている方とお話しするのなら、「だからこそ」の質問を。
逆によく知らない場合も同じ、「だからこそ」の感想を。
もちろん最低限の下調べはしますし、その方の携わったモノにはきちんと触れて、自分なりの考えを持った状態で現場に向かうのですが、始まってみたらあとは流れに身を任せるのみです。
そうやって酌み交わされる酔拳のような会話の鮮度は、私よりもむしろ、普段その方の傍にいるマネージャーさんやファンの方にほど「!!」を与えるもの。
ご本人の「そんなこと聞かれたことないから、つい喋り過ぎちゃった」というウフフなご様子も込みで、結果的に記事が良い仕上がりになることも多いです。
難点というと、「絶対これ使えないだろ」って言葉を悪戯にバンバン引き出してしまうことくらい。
そういったときは、同行されている関係者さんと「これ、カットですね」のアイコンタクトを通信し合って、あとは上手いことやれば良いだけの話。
思えば、別れ際の「良い感じにやっときます」が最近の口癖になっている様な気がします。

無駄はたのしい。
決められた情報を決められた層に適切に届ける取材であれば手法を変えますが、ことクリエイター相手となると、本題に紐づいた話を膨らませて膨らませて膨らみきったあたりの脱線エピソードにほど、その人の人となりが表れるもの。
「作品そのものの答え」は、既存のファンの方にしか響きにくいのですが、「表現者そのものの答え」は広く共感と感嘆を生みますから、有意義なコンテンツになりやすいのです。

そうそう、私が好きな『星の歯車』という曲に、こんな一節がありましてね。

サビつき  ギシギシと大きな音立て
回ろう  キレイにならなくてもいい
巻き込む  悲しみも恐れも人も全部
たまにお宝あるから

本曲の作詞者ご本人から面と向かって、「君の解釈の正答率は50%くらいかな〜(アイスティーズズズズ〜)」と言われた経験がある私ですから、おそらくこれもズレた認識になっているのでしょうが、「非効率こそ楽しい」という私の考えとこの詩にはどうしても親和性を感じてしまいます。
なんとなくのルールやしきたりによって「不要だ」と切り捨てられるもののなかにこそ、最高のお宝が隠れているかもしれないと。
言ってみたら、モッタイナイ病みたいなものですね。

アナログの旨みなんてのは、無駄に見えるもののなかにしか残されていない。
特にテキストの情報ともなると、誰が打ち込んでも文字の形は同じですからね。
中身でどうにかせにゃならんわけです。

 

曖昧で、少し不恰好で、時に真摯で、時に姑息で。
自身の表現を持っている方とお話をしていると、言葉の節々から強烈な「その人み」を感じます。
ただ、それを綺麗に整え過ぎてしまうと、「感情」は簡単に「情報」へと成り下がってしまう。
整理された情報を好まれる方も多くいらっしゃいますので、「成り下がる」という表現はどうかとも思うのですが、確固たる固有性を持つ人の言葉を伝える上で、その成形はあまり賢明ではない。
膨大で曖昧なものを上手く収めるべく、インタビュアーが持参する型。それが邪魔に思えてしょうがないのです。
とはいえ、間違っても私は表現者じゃないため、ここでは単純な例をもってあなたにそれを伝えてみたいと思います。やるぞ。

 

世に蔓延する便利な「型」。
私の思う典型的なそれは、この3語。

 

「言語化」
「解像度」
「世界観」

 

使われる方それぞれに何かしらの思惑があるのかもしれませんが、私が思うに、この3つから伝わってくる情報って、限りなくゼロに近いんですよね。
なにか言っている様で何も言っていない、ただ発した当人が気持ち良くなるためだけのお飾りというか、共通認識を持つ人にしか通用しないおまじないというか。

その昔、爆笑問題の田中さんがラジオでこんなことを言っていたことを思い出しました。

 

「最近の曲は作文みたいな歌詞ばっかじゃん。メールが来なくて寂しいよ、会いたいよとかさ。その気持ちを詩にしてほしいのに!」

 

私はストレートな歌も好きなので、ここまで極端ではないのですが、共感できる部分もあります。
「寂しい」「会いたい」が感情ではなく、情報になってしまっていることへの危惧とでも言うのでしょうか。
言語化も、解像度も、世界観も、3字の型にはめるのではなく、それが何なのかを具体的に伝えるのが書き手の仕事なんじゃないかなと。
言葉は悪いですが、この3つにはある種の「逃げ」「怠惰」「驕り」の様なものを感じてしまうんですよね。「分かんでしょ?この感じ」みたいな。

 

「言語化」
それ自体を言語化してくれ。

「解像度」
それ自体の解像度の低さに気付いてほしい。

「世界観」
それ自体を言葉で伝えてくれまいか。

 

音楽系の記事に関していうと、3つ目の「世界観」という言葉は昔から大変重宝されています。
ライヴレポなんかを読んでいると、「絶対に入れなきゃいけないルールでもあるのかな?」と勘ぐってしまうほどの頻度で出現しますよね。
ただ、私はあまりこの言葉を使いません。お仕事であれば尚更です。
何故なら、その日、その場所、その時間に存在した「世界観」を読み手に伝えるのが書き手の役割だと考えているから。
2000字の記事であれば、「世界観」と大きく書かれた2000ピースのパズルを完成させるような感覚です。

 

私にとって、仕事とは「役割」です。
どういうわけか、読み手の方々から「文章に愛がある」といった評価をいただくことが多いのですが、その一方で実際にお仕事で関わる方々からは、「すごいドライですよね」と言われることが大半です。
文章から想像する人物像と私がかけ離れているせいなのかもしれません。
自然と生まれた言葉を書いているだけなので、それはもうどうしようもないんですけどね。
私は私なりに私の役割を果たしているだけなのですから。

まずはなにより、「なにを任されているのか」を考える。
書き手それぞれにスタイルがありますが、少なくとも私には、「ファンと同じ目線に立って、みんなの想いを代弁したい」という意識はありません。これっぽっちも。
ライヴレポで言うなら、その時間に観たものを時に超広角、時に超ズームで追いかけ、「アーティストとファン」という、その場で最も美しい両者の勇姿をペンとメモ帳片手に眺めているだけです。

エモーショナル、いらん。
独自の表現、いらん。
そんなものは、趣味のブログかSNSにでも書いていればいい。
作ったものが自然とそれを生んで、結果的に誰かの喜びに繋がったなら、それほど嬉しいことはないけども。

「そこにあるものを丁寧に書く」という意識のなかで、最も「そこにいる必要性」を感じない言葉こそがそう!世界観!!
申し訳ない。これはまじで何よりもいらん。
文中で「独自の世界観」という言葉を使うのではなく、その独特たる所以を与えられた字数で読み手に伝えること。それが私の思う、私の役割だから。
それが出来なければ、決まった報酬を受け取れたとしても大失敗。もうしわけない。

上手く届けられたものは、何を願わなくとも読まれた方が自然と広げてくださるので、答え合わせは非常に簡単です。
それぐらいにシンプルなものだと思っているからこそ、「この記事、私が書きました」というアピールも、「こんなの書きました」という本人への報告も、「こんなに頑張って書いたのに」という愚痴も、すべてが滑稽に見えてしまうのです。
趣味であれば話は別ですけどね。

 

情報の回る速度が10年前とは桁外れの現代において、ライターが書く文章の価値とは何なのでしょう。
音楽・出版業界がやられまくっている今も、それが変わらずに存在しつづけられる理由とは何なのでしょう。
MCの内容くらいしか変わらないレポに疑いを持たずお金を出せるのはいつまでなのでしょう。そう遠くはないでしょう。というか、もう今でしょう。

って、そもそもがライヴレポの中身にそこまでの意味や価値など求めちゃいないっていうのが正解なのかもしれませんね。
実際にメディアで掲載されている多くの記事データを解析させていただいたときも、テキストページの滞在時間などほんの数秒から1分程度で、記事内に掲載されているライヴ写真の閲覧時間の方が長いなんてこともザラでしたから。
ただ、そんな実状を知れば知るほどに「せめて書き手にくらいは、アナリティクスのデータを開示した方が良いんじゃないかな」と思ったりします。

機密っちゃ機密ですから、全ては難しいでしょうけど、該当ページの滞在時間くらいはね(PV数はあてにならぬ)。

文字より画の方が強い、画より声の方が近い、その両方を兼ね備えている映像はまじ最強。
といっても、ここでいう「最強」はあくまでも情報量を指すものなので、それが全てではありませんけどね。
ただ、時代や環境について考えれば考えるほど、「テキストだけを武器にするのはどうかな」と思わされることもあって、私はYouTubeチャンネルを始めました。

新しい仕事、つまりは役割を見つけるためにです。

ここ2ヶ月は音楽系の記事から離れてしまっていたのですが、また書かせていただくこともあるでしょうから、自戒の意味も込めて、ライターという役割の意味と報酬の理由について考えてみました。
言葉にはめちゃ気を付けたけども、ここまで言っておいてゴミテンプレートムミムシュウ記事 or 中身スッカラカン動画なんて作ろうもんなら、それこそ終身刑だわ。おーこわ。がんばろーっと。

 

あ、最後にひとつ質問を。
スラスラ読める文章になっていました?
YESのご返答は、記事更新告知ツイートのリツイートをもってお知らせくださいませー強欲ー。