言葉のこと

読みやすい文章の書き方よ

渡る世間はモジだらけ。
スマホを開いても、街を歩いても、チケットを発券しても、我々の視界には常に文字があります。

「最近の人は文章が読めない」と言われて久しい令和5年。
人類の退化を憂いでか、動画・音声コンテンツがここ数年で猛烈な盛り上がりを見せていますが、人がテキストから隔絶された世界で生きるようになるにはまだまだ時間が掛かりそうです。

かくいう私も活字は大の苦手。
それも、今より遥かに活字社会であった幼少期からずっとです。
「読む」以上の苦痛など、片手で数えられる程度しかありません。
だからこそ、文章の読み心地には人一倍敏感なのです。

「目が滑る」なんて言葉も生まれるくらいですから、世の中には数多くの「読みにくい文章」が存在するのでしょう。
ただ、その評価基準は極めて曖昧で、それが正しいルールに基づいて書かれたものかどうかよりも、個々の相性によるものの方が大きい様に感じられます。

文章に限らず、それは芸術においても、もっと言えば人間においても同じ。
結局のところ、すべては相性です。

憧れの人が言うことには大体感心する。
何故って、意識的にその言葉を「良く聞こう」とするから(耳ピーン)。

対して、嫌いな人がやることはなんだって気に入らない。
何故って、意識的にその行動を「悪く捉えよう」とするから(耳ピッキーン)。

「所詮は好き嫌いの世界、実力なんて二の次」
全部が全部その程度だと思うのは寂しい気もしますが、私は常にそう考えています。
人の評価軸なんてのは、一時の感情でいくらでもブレるものですからね。
そいつを指標にしてしまうと身も心も持ちません。

今日の議題はズバリ、「読みやすい文章ってなんだ?」です。
これもまた例外なく私の好みと相性によるもので、納得の正解などございません。
ただ、普段からそこまで文章について考える機会のない方にとっては何かしらの気付きになるんじゃないかしらとも思いますので、愛猫でも撫でながら最後までお付き合いください。ちゅ~るはとりささみ味でね。

読みやすさを語るべく、読みづらさを用いるよ。
それでは、ひとつめの良くない例へ。
まずは軽めに「言葉遣い」からゴーゴゴー。

ら抜き言葉

こりゃもう論外ですね。
なにより間抜けに見えてしまいます。
会話においては何の違和感もなくすんなり耳に馴染むのに、どうして活字になった途端にこんなにも知性を欠いてしまうのか。まったくもって不思議です。
失ってから気付く。家族の愛と「ら」の魔力。と、期間限定楽天ポイント。

「ら抜きってイヤよね」ってだけじゃあまりに淡白すぎるので、数多い「ら抜き言葉」の中でも私が最もウワァーーーとのけぞってしまうワーストワンワードを紹介します。これです。

 

「入れれる」

 

ウワァーーー分かっててもウワァーーー。

なんなんでしょうねコイツは。
その文章を打っている人間が仮に40代であったとしても、私の頭に浮かぶ人物像は舌足らずな2歳児です。
なかには「入れれれる」という猛者もいますよね。
まぁそこまでいくとホウキを持ったおじさんが忙しなくアスファルトをシャカシャカしている姿が浮かんでくるので、若干愉快でもありますが。

ラフな場であれば「まぁまぁまぁ」とギリ見逃しますが、これが文章を生業にされている方の指から飛び出してくるなら話は別です。
久保田利伸から「ラ」をひとつ拝借しに行きたくなるほどの失望。
あ、それで思い出したんですけど、歌詞でも勘弁してほしいですね。
ら抜きの歌詞カードは厳しいですぞーーー私だけーーー?エエエエエエ。

そうゆう

これも最近多いですよね。
さすがにフォーマルな場では使っていないと信じたいのですが、人間は癖づくとフとしたときにボロが出てしまう生き物ですから、日頃から意識して直された方がよろしいかと思います。
「そーゆー」までいかれると「for youみ」もあって、ちょっと特別感を感じますけどね。って感じるかバカ。

という・こと・もの 連打

「~という」「~こと」「~もの」のラッシュも避けたいところです。
これだけだとよく分からないでしょうから、例をあげますね。こんな感じ~。

例1:さいたま市には「おかしさん」というお店があるらしく、そこで売っている「とれびあーん」というクッキーがとても美味いという噂を聞いています

例2:好きなことを続けることはアンチエイジングに効果的であることを知っているが、夢中になれることを見つけることは簡単なことではない

あんまり……気にならない……です?
「お前の好みじゃん」で一蹴される事案なのかな。
でも、試しにもう一回読んでみません?
言われてみると気になってきません?でしょ?

よしよし、この調子で感染させつづけたら正解に近付くぞ。ビバ民主主義。
記事の意図とはズレてきた気がするけど、まぁいいだろう。次へ急ごう。

一文が長い

さっきまでの重箱チクチクから急に飛躍しましたね。
個人的に先述の3つよりもこちらの方が1000倍は大問題!
というのも、誰かに指摘されなければ気付けない上に、気付いたところでなかなか直せない厄介者なんです。

ちなみにここでいう「一文」というのは、句点(。)までのことです。
文の始まりから句点までの距離が長ければ長いほど読み手は苦しみます。
ただ、これに関していうと、プロのライターさんの文章にも多く見受けられるんですよね。
というよりむしろ、書くのが好きな方ほど一文が長くなりやすくなるのかもしれません。
書くのが苦手な方は、「早く終わらせたい」という意識が働くのか、かえって一文が短くなる傾向にありますからね。

句点までの距離が長すぎる文をよしとしないのは、単純に読みづらいからです。
あとは、内容がめちゃくちゃボヤけるんですよね。
めちゃくちゃくどいのに何も伝わってこないという、私のような活字キラー(イ)にとっちゃ一番の大敵。やめてほしい!

その場その場の対応力が試される場(面接や商談、プレゼンの質疑応答タイムなど)において、「あれ?私は一体何を言っているんだ?」と、話している最中に頭がこんがらがったり、「もらった質問とは無関係な答えを出しちゃってる気がするなぁ……」と不安になられた経験のある方は要注意よ。
一文が長い人は、テキストでそれをそのままやってしまっているのでね。

これまた私なりの見解ですが、長くなってしまう原因と、それが及ぼすスーパーデメリットをご案内します。

原因:止まらないダケドダケド殺法

接続詞を過剰に用いてしまう。
一文が長くなる原因の大半はこれです。
例をあげると「〜ですが」の類。
もうちょっとラフな文体だと「〜だけど」ですね。

例:私はピクルスが美味しくないと思っているんだけど、それは本当に美味しいピクルスを食べたことがないからかもしれないけど、そもそも最高級のピクルスってどこに行ったら食べられるの?

こんな感じ。

この手のダケドダケド殺法は、ありとあらゆる場所に点在しています。
今後、どなたかの文章に触れた際に「なんか回りくどくて読みづらいなぁ」と思うことがあれば、注意深く読み返してみてください。
この例に該当する可能性はそう低くないはずです。

ただ、この例文はかなりマシな部類ですね。いっても2回の接続ですし、全体で3行程度の長さですから。
これがね、3・4回続くとなかなかの地獄なんですよ。
Twitterで140文字ギリギリの文章を一文で消費してしまう方、いらっしゃるでしょう。
言いたいことが収まらずにツリー状にして投稿しちゃう方、いらっしゃるでしょうそうでしょう。
そういった方のアカウントは接続魔の巣窟である可能性が高めです。
これもまた、書くのが好きだからこそ発生する現象なのかもしれませんね。

とはいえ、「一体この一文はどこまで続くんだろうか……」と途方に暮れちゃう文章は読んでいて辛い。
なかには「〜なのに」と掛け合わせる方もいて、だけどなのにだけどだけどなのにだけどだけどと、般若心経さながらの長尺ラップをお見舞いされることも少なくありませんから。
文章だけでなく動画コンテンツもですが、情報を間延びさせ過ぎると離脱率が一気に上がるんですよね。
ひとつの文章が画面上で6・7行に及ぶ状況はさすがに異常です。適切な息継ぎポイントを設けましょう。
さもなくば、文字の隙間で読み手が溺死してしまいます。

書き手がつい忘れてしまいがちなのが、読み手との立場の違いです。
もう頭のなかで書くことが決まっていてゴールまで見えている書き手に対し、読み手は明確なゴールが見えないままひたすらテキストを目で追いながら同時進行で内容を理解しようとしてくれます。この差を小さく見積ってはなりません。

媒体や記事の内容にもよりますが、「専門的な知識がなくても楽しんでもらいたい」という思いが少しでもあるなら、分かってもらえることを前提にした文章づくりはやめられた方が賢明です。
常に「初めまして」の精神で執筆しましょう。

デメリット:呼応表現の乱れ

一文ナガナガ族にありがちな失敗の典型パターンです。
「呼応表現」というのは、「この言葉で始まったら、この言葉で受ける(終える)」というお決まりの型のこと。
「きっと」から始まれば、「だろう」で締まるみたいな。
一文が長い方は、「呼」と「応」の間に内容を詰め込みすぎるので、「応」にたどり着いた頃には「呼」を忘れてしまいがちなんですよね。例えば、こんな具合に。

例:ディズニーランドよりもUSJの方が魅力的に感じるのは、きっと幼少の頃からお母さんと弟と一緒に居間で夕飯を食べながら『スパイダーマン』を観続けて来たせいなのかもしれない

はいカット!
「きっと」で始まって、「かもしれない」で終わるこの違和。耐えられない!

これ以外にも、「絶対に」から始まったのに「〜とは限らない」で終わったり、「一概に」を用いたのに「〜である」と肯定形で締めたり。呼応の乱れは実に様々です。
ありがちなケアレスミスではありますが、読む側からするとなかなかの破壊力があるので、なんとしてでも避けたいところですね。

「接続とか呼応とかめんどいわー」なんて難しく考える必要はなし。
一文を短くするだけでこれらは全て解決しますので、そこだけ気を付けていただければ間違いありません。
「気を付けろ」と「間違いない」の連なり。
読みやすい文章の鉄則とはつまり、長井秀和そのものです。

と、これに続いてまだお伝えしたい例がたくさんあったのですが、書き終えてみたらまぁまぁな文字数になってしまったので、2回に分けて更新します。
2・3日以内にはアップするかと思いますので、もしよろしければ引き続きお付き合いくださいませ。それではまた次回~。

 

いやはやしかしスタバリワードめー。許さんぞー。