言葉のこと

伝わりやすい文章の書き方よ

あざらし
あざらし

さてさて、お次に取り上げるのはキザなあいつ。

無意味な例え

こればっかりは「わかるぅ〜」と言われたい。
「その例え、必要ある?」ってケースですね。
ただ、これに関しては書き手に少し同情しちゃうんですよ。気持ちは痛いほど分かるので。
というのも、「例え」と「比喩」って、使うとマァーーー気持ち良い。
使いたがる人の母数が多いからこそ、それが逆効果になっている場面と遭遇する頻度も高くなっているのでしょう。

例:就職面接において、その仕事とは関係のないアピールをしてしまうのは、砂漠で水を求めて彷徨っている人に向かって「カロリーメイトありますよ!おひとつどうですか?」って言っている様なものなんですよ。あなたは喉がカラカラなときにカロリーメイトを食べたいと思いますか?食べたくないですよね?だから、そんなアピールはもうやめてください。相手の求めているものをきちんと理解して、それを与えることが内定を勝ち取る秘訣です

おお、これはなかなか良い例が出せた気がする。
絶妙な「この例え、いるか?」を再現できたのではなかろうか。

私は思っちゃうね。
「内定を勝ち取るためには、その職種に求められたアピールポイントを提示しましょう、で十分じゃない?」と。
例えが必要なほど難しい話でもなければ、成人が「なるほど!!」と膝を打つような秀逸さもない。にも関わらず!長過ぎる!!

この手の例えと比喩が乱発されるのは、主にレクチャー・ノウハウ・自己啓発系の発信ですね。
私が動画編集を始めたばかりの頃、編集ソフトの基本操作を学ぶべく、様々なレクチャー動画を拝見していたのですが、そこでも5人に4人は例え話を用いられていました。
「この”プロジェクト”というエリアは、動画や画像・音声の素材を入れる箱だと思ってください。料理で言ったら冷蔵庫ですね、調理をする場所ではなくてなんちゃらかんちゃら〜」みたいな。
これもさっきの例と同様、「ここは動画や音声の素材を入れる場所です、だけで良いのでは?」って思っちゃう。なんでわざわざ料理に例えるのよと。
「何も知らない初学者に対して出来る限り優しく」という心意気がかえって分かりづらい言い回しを生んでしまっている様に思えてならないのです。
やさしいからこそ、つらい。でも、気持ちは分かる。人は誰だって優しくありたいものですからね。あと、気持ち良いしね。例えって。結局そこよ。

必要なことを必要な言葉で簡潔に説明する。
話し手と聞き手、双方にとって一番楽なはずの様式を崩してでも、人は例えたがってしまう。
手間暇をかけてまで、「キマった……」というあの快楽を欲してしまうのです。

この手の例え話は、芸術や作品を評する場でもよく見掛けますよね。
ライヴレポでいうと、「雪解け水の様な美しいアルペジオがこだますると、うちあげられた鯨の呻き声の様な野太いベースラインが空間を支配し〜」みたいなのが延々と続く文章。よみづらっ。でも気持ちよさそっ。

などといろいろ言ってはいますが、決して例えが悪だと言っているわけではありません。
上手な比喩は「ここぞ」なときに「ここぞ」な言葉でキマると、めちゃくちゃクールで満足感アゲアゲですからね。
ただ、そこに「うまいこと言ってやろう」という欲が分かりやすく出過ぎてしまうとどうにも寒々しい。
一回ウケたツイートの直後に「もう一回!」と欲を出して2度目で滑り倒している人みたいな。
「その例えこそ必要ないだろ」って思いました?正解です。名答ついでに今の私の気持ちを聞いてってちょうだい。

チョ~気持チィ~

「無意味な例え」は、前回の記事でいう「一行が長くなる」にも繋がる短所です。
決まれば最高、トチれば最期。
「例えは諸刃」と覚えておきましょう。

同義同義の繰り返し

一行のなかで同じ言葉、ないしは同義語をリピートしてしまうパターンですね。これもよく見掛けます。

例:ずっとこの街は素敵な街だと、私はずっと思っていた

こういうの。
見覚えのない方はきっと、この手のリピートが気にならない気質のお方なのでしょう。
羨ましい。私もそうなりたい。小姑みたいなこの細かさ・陰湿さから解放されたい。

この手のリピートが発生しがちなのは、「多分」「いつも」「ずっと」といった副詞を用いるときですね。
「絶対」のような名詞・形容動詞を副詞的に使うときにも多い印象があります。
副詞ラッシュは論外ですが、それと同じくらいに動詞を繰り返すパターンも個人的には苦手です。例えばこんな。

例:私が驚かされたのは、この店のカレーが放つ異常なスパイシーさが前妻に向けられた店主の呪いによるものだということに驚かされた

「いくらなんでも例が極端すぎない?」とお思いでしょう。
でもね、まったくもって大袈裟じゃないんですよ。本当によくあるんです。
WEBメディアのディレクションをしていたときも、結構な頻度でライターさんに同様の修正指示を出していました。
ただ、「よくある=それでGOが出るメディアもある=今は問題ない」ということなのかもしれません。
言葉の使い方は時代によって変化していくものですから、私が細かすぎるだけって説も大分濃厚です。
古くからのルールを守り過ぎることで、「それってなんか変じゃない?」と言われてしまうケースも当たり前に出てきそうですし、私も私で絶対的な正しさを持っているわけではないですからね。

そうだよな。私も知らないからな。
公開するのやめようかな。この記事。

体言止め

「体言止めってナニさ」という方もいらっしゃるかもしれません。
おおまかに説明すると、文末に名詞を持ってくる手法ですね。
「おーいお茶は美味しい」じゃなく、「美味しいのは、おーいお茶」みたいな書き方です。
バサッと言い切りなので、使い所によってはキレとパワフル感を演出できる優れモノなのですが、やはり多用するのはおすすめできません。

体言止めは特にインタビュー記事との相性が最悪ですね。
これをテキストで連発されると話し手がロボットみたいになってしまうんですよ。こんな感じに。

ライター「今回のライヴツアーでの新たな試みはありますか?」

アーティスト「はい、今回は激しい曲を中心にセットリストを組むようにしています。序盤は特に客席を煽る様な選曲。活動初期の勢いを体現。かなり良い感じで進んでいるので、ファイナルがどうなるのか自分でも楽しみですね」

うーん、今時のAIの方が余程人間らしい。
更に言うと、この手のライターさんはご自身の発言をも体言止めにするので、ロボ対ロボのトークセッション感がすごいんです。
インタビュー記事というのは、空気感も込みにして初めて読み手に臨場感と説得力を伝えられるものなので、体言止めは禁止すべきとさえ思ってしまいます。

例え(比喩)と同様、キマれば超有用。しかし、これまた諸刃なり。
テキストでの空気作りが余程上手でない限り、「なんでこの人こんなにかっこつけてんだろ」という違和感だけが残ってしまいますから。
自己陶酔 is DEADだわ。

下手な体言止めは、読者の目をつっかえさせてしまいます。
本来リズムを生むためでもある技が、かえってリズムを崩してしまうわけです。
そう、読み手にとって文章のリズムは超重要。
で、す、が。
そこにだけ意識を向けると、極めて単調かつ退屈なコンテンツになってしまうこともあります。その悪例が次の項目です。

文調が揃いすぎ

Like a コドモの作文。
「〜です〜です〜です」「〜である〜である〜である」といった具合に調子が揃い過ぎた文章ですね。
修正を入れるかどうかは編集者の好みにもよるところですが、私であればライターさんには指示を出さず、勝手に直しちゃうかもしれません。

「〜である」「~なのだ」といった硬めな文調の場合、セリフ以外の「ですます調」は不自然なので、体言止めの様な言い切りをうまく組み合わせることによって、違和感なし&リズムありな文章を作ることができます。
例文をあげたいところですが、こればっかりは結構な文章量がないと再現できないので割愛します。

 

ってとこか。
私の私による私のための「読みづらいぞ品評会」はこれにて終演。
普段はあまり長い文章を書く機会がないという方も、今後お仕事の資料作成や結婚式の友人スピーチなんかで「書かねばならぬとき」が来るかもしれませんので、「読みやすく、聞きやすく、伝わりやすい文章を書きたいな」ってな日が訪れましたら、ゆるく参考になさってください。
ま、私も正解なんて知らないんで何の責任も取りませんけどね。ハッハッハーそれではまたー。